女の視線はいつも男の死角に属すもの
男というやつは、
母親であれ、妻であれ、恋人であれ
絶えずやさしい女を追い求めるものではないだろうか?
永遠のロマンなのかもしれない。
美しく、賢く、若ければ、それこそ申し分ない。
が、問題はそんな女がいるかどうか?
いたところで、出会って、一生の伴侶になるだなんてことが
果たして、考えられうるだろうか?
まあ、男のロマン、夢として見れば、たわいもないことだ。
何もバカにすることもなかろう。
しかし、そんな女の物語がある。
ドストエフスキー原作『やさしい女』、
ロベルト・ブレッソンによるその映画化である。
“やさしい女”を演じたのは
若干17歳、神々しいまでの美しさに包まれたドミニク・サンダ 。
記念すべき、彼女のデビュー作でもある。
そこに偽りなどなく、まさに美しく、賢く、若い女だ。
が、文字通りの『やさしい女』であるかどうかは見ればわかる。
実に、悩ましく、心苦しい限りである。
しかし、具体的な悩ましさなど、どこにもない。
むしろ、女はその悩ましさのなかで苦しみの声をあげている。
しかし、誰にもその声が届かない。
相手の男(夫)を惑わす悩ましさとは、
実は男側の無理解からくる、心の乖離なのである。
まずは、タイトルバック。
冒頭のパリの街中、車が行き交う夜景。
なんでもない気配が暗闇を支配しているだけのシーンである。
だが、その気配にこそ、
ブレッソン映画にふさわしいざわめきを予感させる。
そうして、のっけからつきつけられる事態に出くわす。
開いた窓、テラスでテーブルが倒れ、
同時に椅子が揺れ、花の鉢が割れる。
そこに、車の急停止音が響く。
空に白いショールが緩やかに舞う。
女が倒れている。
若い女の自殺の現場である。
だが、おおげさなものはなにひとつない。みせない。
不謹慎だが、映画史上最も美しい自殺のショット
思わずそう呟きたくなるほど、見事なまでの描写力である。
これが、『やさしい女』の結末でもある。
いきなり、この残酷な結末をつきつけられ、
物語は彼女の横たわる亡骸とともに、回想をともなって
このひとりの女の悲劇のベールを少しづつ露わにしていくのである。
そのベールをはぐのは、質屋を営むその夫自身である。
歳の差は二十以上、カメラを売りにきた若い娘にプロポーズし
「すべてが無理」だと言い放たれても、
なかば強引に“男のロマン”を叶えるのがギイ・フランジャン演じるこの夫である。
感情の抜け落ちた、まさにブレッソン的俳優である。
この映画を見ている観衆は、おそらく、
ほぼだれもがこの夫の言葉に、心から耳を傾けようとは思わないだろう。
なぜなら、この男の言葉に重みなどなく、
その鈍感さゆえに終始女の気持ちから遠のいてゆく
ひたすら無力の絆を見せられるだけだからである。
我々はこの夫に向き合う女側の気持ちに立って、
つまり、男への感情移入は完全に遮断されてしまう。
それにしてもドミニクの目ヂカラが半端なく凄い。
相手を射抜いて石にでもしかねないかのように強く鋭い。
バスタブでおとした石鹸を夫から手渡されるシーンをみよ。
それがどこかで悲劇に直結していると思うと、胸が締め付けられる。
夫との視線で癒やされることは一度もない。
心の距離が縮まることがない。
表情が緊張から解かれることがないのだ。
まるで手を離れた凧のように、離れてゆくばかりである。
二人に愛はあるのか?
いや、一瞬でもあった試しがあったろうか?
女は言う「あなたの望みは愛ではなく結婚だわ」と。
「結婚なんて、猿真似に過ぎない」ともいった。
しかし、女は結局、男の求婚に身を任せた。
結婚初夜に、ベッドで子供のように飛び跳ねてみせたのが
唯一心の開放だとでも?
音楽を聴いても、演劇をみても、博物館に出向いても
埋め合わせることのできないズレ。
だが、本質的に、妻は夫以上の知性に満ちている。
レコードをかけ聴いているのは、パーセルの「来たれ、汝ら芸術の子よ」であり、
シェークスピア「ハムレット」の演劇を鑑賞すれば
割愛された原作個所を的確に指摘し読み上げてみせ、
自然史博物館では「生き物の構造はどれも同じ、配列が違うだけ」
などと言ってのける。
そんな知的な女と、日々金に執着をみせ
若い女房の足を愛でることでしか愛を示し得ない質屋の男とでは
そもそもが釣り合いが取れるはずもない。
カーレースや戦闘機、競馬レース・・・
それは夫がみるテレビの映像にすら集約されている。
やさしい女は次第に絶望の淵に追いやられてゆく。
十字架に触れ、鏡に向かって一瞬だけ微笑んで、
ショールを身にまとった瞬間、
全ての希望を放棄し、はっきりと絶望を選ぶのである。
すでに、心は決まっていたのだ。
そうして、女は黙って身を投げる。
男は、その意味がわからない。
この先もわからないだろう。
物言わぬ女が横たわる棺を永久に閉めあげる音とともに映画は終わる。
それにしても、男と女のすれ違い、
と言ってしまえばそれまでの話だが、
これは全ての隣人、我々の問題でもある。
この世に男と女がいる限り、この溝はなかなか埋まりようがない。
まして、結婚という儀式、制度の中で、
それを超越する感情の理想的調和など、自然に生まれるはずもない。
どちらかが歩み寄って、どちらかが何かを手放し、
理解し得ないという真理を、まずもって理解すること。
その先に、真の優しさが芽生えるのではかなろうか?
ブレッソンの演出は厳格であり隙がないが、
無駄を省いたこの簡潔さに反し、受け止める側の難解さを前に
ドミニク・サンダの崇高な美は死をもって
さらに揺るぎなく、完璧を極める。
その隙のなさに、ただ吸い込まれて身動きが取れないのだ。
しかし、男のエゴ、あるいは女の心情のズレの前には、
あらぬ妄想だけが勝手に膨らんでゆくばかりである。
もはや、根本的な解決の出口などどこにもない。
夫は妻の気持ちを永遠に理解することはないだろうし
妻の気持ちもまたこの映画を見ただけで
万人に分かり合えるようなものを示しはしない。
絶望を抱き、死を選ばざるを得なかったことだけが
全てを言い表している女の気持ちである。
このわかりあえぬという痛みの代償が、
どんな饒舌な説明をもってしても、解けない事実を示してみせる。
そこで、この「やさしい」という意味について、
改めて考えざるを得ない。
この原題が『やさしい女 ー幻想的な物語ー』とされているところに綾がある。
この「幻想的」という言葉でさえ、解釈に戸惑う。
死そのものが幻想的なのか、それとも女の感情そのものが幻想的なのか。
あるいは夫婦間、男女間における意識のすれ違いそのものなのか。
答えは永遠に謎だ。
それらひっくるめての幻想なのか?
文字通りの「やさしさ」とは反語なのか?
しかし、そこに明らかな不幸がある。
明らかな絶望がある。
実に残酷で、恐ろしくも美しい映画である。
けして感情に支配されることのないブレッソンの厳格な映画で、
その狂いなき演出を損なわぬ冷徹なカメラワークは
いみじくも、二人が映画館で見つめる映画ミシェル・ドヴィル『めざめ』同様
ギスラン・クロケによるものだ。
まさに職人芸である。
そんなカメラワークの前で、戸惑いすら見せず
デビュー作にして、ブレッソンの意図を忠実に反映し
すでに大物ぶりを発揮するドミニク。
ヴォーグ誌のモデルとして活躍し
15歳にしてすでに結婚を経験し、
ブレッソンに見いだされた本作では
すでに二年の結婚生活にピリオドを打ったあとだったというから
筋金入りである。
以後、この映画を足がかりに踏み出した女優業は、
ベルトルッチの女神として順調にキャリアを伸ばすことになる。
『暗殺の森』の反ファシストたる教授夫人アンナ、
『1900年』での宿命の女アダでみせた官能性、
どちらもまぶしいまでの残像を放っている。
それはリリアナ・カヴァーニの『善悪の彼岸』で惜しみなく晒した
才女ルー・ザロメの姿にも重なる
高貴なエロティシズムや娼婦性さえちらつかせながらも
軽く男を手玉にとってしまう優美さと妖しさが同居する、
まさに美の化身として、永遠にわが心に刻まれている女優なのである。
タバコを吸っても全く嫌みすらない。
『妻であり、母であり、女優である」
写真家操上和美によるなんともかっこいいCMであり、
彼女の魅力を十二分に伝えている。
これは日本のパルコのCMに起用された時の貴重なものだ。
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