文学から映画へ、革命はいつだって横滑りするものである
キューバのカストロ、あるいはチェ・ゲバラ。
ロシアのボリシェヴィキの指導者レーニン。
古くはフランス革命後の混乱から独裁政権を樹立したナポレオン。
あるいは日本の夜明けを担った幕末の志士坂本龍馬。
なんなら世界にその運動、闘争の火種を撒いた
文化大革命と銘打ったお隣中国の毛沢東を忘れてはいけない。
革命と名がつくものには、常に英雄の名がつきものだが、
所詮それらは書物などで語り継がれてきた歴史上の狂想に過ぎない。
遠くへだった現代の我々に、
今、何か直接的に関与してくることなどほぼ何も無い。
そうしたエピソードを仰々しく引くのは専門家に任せよう。
そこで、もうちょっとだけ身近な話をしよう。
その昔、江夏豊という球界を代表するピッチャーがいた。
もう半世紀近くも前のことである。
一匹オオカミ的な孤高の存在で長年球界に君臨してきた男である。
当時の江夏は前人未到の年間奪三振記録
401個を保持しているピッチャーで
半ば伝説のサウスポーとして記憶されている。
その江夏が晩年ソフトバンクの前身である南海ホークスへ
トレードに出された時のエピソードが個人的に印象に残っている。
当時の南海の監督はプレイングマネージャーだった
ぼやきのノムさんこと野村克也氏。
ノムさんは球界の再生工場の異名をとり、
いわば使い物にならなくなった選手を
再び陽の目が当たるよう工夫を凝らし復活させる術に長けた指導者だった。
トレードに出された江夏は流石に力は落ちていたが
何しろ実績が違う。
それゆえプライドだけは超一流のままだった。
で、当時投手の分業制が確立されていない時代に
ノムさんはリリーフ投手の重要性をいち早く唱え、
その役割を江夏に求めた。
しかし、先発スタイルにこだわる江夏は
断固として首を縦に振らない。
ましてやトレードのわだかまりが解けない。
そこで野村は考えた。
江夏のプライドを傷つけずにリリーフ投手への転向を納得させるには?
その時使った言葉が「革命」である。
「(リリーフで)革命を起こしてみろ」という野村の言葉に
「ほお、革命か」といって表情を変えたという。
まさに戦国武将たちの会話のようにも聞こえるが、
くすぶっていた江夏のプライドが目を見開いた瞬間である。
その後新たな伝説を作ることになる。
のちに神話化された近鉄と広島の日本シリーズで
「江夏の21球」はそこから始まったのだ。
「革命」無くしてあの名ドラマは生まれなかったのである。
とまあ、いっぱしのスポーツライターよろしく
得意げに長々野球のネタなんぞ書いている場合じゃないのだが
「革命」とは、それほどまでに
男の心を動かすキーワードなのだということが言いたかっただけである。
では、例えば、映画における革命とは?
文学における革命とは何か?
映画なら真っ先にゴダールと呟けばいいだろうが
文学は? となると少し躊躇してしまう。
『存在と無』で実存主義ブームを巻き起こしたサルトルか。
文学か、あるいは哲学か。
「革命」などという物騒な言葉を持ち出したがゆえに
テーマはますます混沌と深みにはまってゆくが、
そこで思い浮かべるのがヌーヴォーロマンである。
フランスで発祥したこのヌーヴォーロマンという動きは
映画でいうヌーヴェルヴァーグのようなものでもあるが
そこは文字と映像ではだいぶズレがある。
このヌーヴォーロマンについて、
江夏の下りのように長々と説明する気にはなれないが
ジャリやルーセルといった、のちにシュルレアリスムの系譜に連なる文学とも違うし、
カフカのような直球の不条理文学というわけでもない。
簡単に言ってしまえば「新しい小説の形態」に過ぎないのだが
そんな大雑把な言い方が許されるところに
ヌーヴォーロマンの魅力、幅がある。
ヌーヴォーロマンはヌーヴォーロマンである。
その代表格をあげるとすると、アラン・ロブ=グリエということになろう。
デュラスもサロートも、あるいはクレジオ、ベケット、ビュトール、ブランショも
ジャンルの上では一緒くたにされてしまうところだが、
やはりそれぞれ個性が違う。
当たり前の話だ。
なので、ここではロブ=グリエだけに絞って書くとしよう。
1953年に『消しゴム』でデビューして以来
『覗く人』『嫉妬』など次々と文学的問題作を発表してきた作家ではあるが、
幸い、ロブ=グリエという人は生涯9本の映画を撮っており、
アラン・レネの『去年マリエンバートで』の脚本をも手がけているぐらいだから
映画というジャンルにも並並ならぬ意欲を示してきた作家と言える。
実はその作品の一つ『快楽の漸進的横滑り』について
何か書けるかというところから
長々と前振りを書いてきたのである。
映画版『快楽の漸進的横滑り』を観終わった後に
それを言語化することに、少なからず戸惑いがあったのは確かである。
なぜならこれを映画として、語る言語が果たしてあるのか、
あればそれはどういう言葉が適切なのか
という根本的問いを突きつけられたような気がしたからである。
がしかし、なんと素敵な表題だろうか?
和訳ではあるが快楽の漸進的横滑り、という
原題以上のその快楽的な響きにクラクラしてしまうほど
刺激的なタイトルの前には書く快楽に抗えない。
すでに文学版『快楽の漸進的横滑り』という言葉を目にした時から
やられてしまっていた自分は
これが映画としてどう成立するのか、
という興味本位だけでスクリーン上でこの問題作と対峙することになった。
それこそはまさに革命的な鑑賞であった。
まず、ストーリーらしきもので展開してゆく映画ではないということ。
一言で言えば、物の視覚的描写が続くのである。
赤いペンキ、滑る生卵、裸体、そして海岸にうち捨てられたベッドなど。
唯美的描写に彩られ、唐突な事件が提示される。
そして背後に聞こえるサイレンや銃声やグラスの飛び散る音、
付け足される音響で映画的快感は増してゆく。
アニセ―・アルヴィナ演じるアリス、
かくも麗しい美女がいて
その美女がルームメイト殺しの容疑をかけられ逮捕される。
心臓にハサミが突き刺さっている死体には
描きかけの聖女殉教の絵がペイントされている。
犯行の動機、犯人の確定は謎。
事件は最初から迷宮に入り、中世カトリックの悪魔主義的な映像が挿入される・・・
ポルノグラフィーか、はたまた神への冒涜か?
倫理を元に考えていたところで出口なし。
まさに、鬼才ブニュエルにも匹敵する独創的な幻想が繰り広げられている。
誰もが向かわないであろう、この難解なイマージュの陳列が
どこまでも快楽的に(スクリーンを)滑ってゆく。
つまりは言語をエロス化すれば
かようなまでの形而上学的エロティシズムに繋がってゆくのか、
という興奮が網膜に焼き付けられるのだ。
それはいくらどう考えても
エクリチュールだけではたどり着けない領域であろう。
そのことに敏感であったロブ=グリエの
まさに革命的な映像感性によって、
最初から徹頭徹尾、映画としての混乱が生じている。
若き日のジャン・ルイ=トランティニャン、駆け出しのイザベル・ユペールが
何気なく出演しているという不思議な縁。
この作品の公開当時、
公衆道徳に反する内容だとして各国で上映禁止を食らい
フィルムが焼かれるまでの扱いを受けていたというから
曰く付きの映画であることは間違いないところだが
果たして、そうした抵抗に何の意味があるのだろうか?
革命とは、血を伴うものだと歴史は証明してきたが
こと映画における革命に本物の血など不要なのだ。
それこそがロブ=グリエの狙いなのだから。
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