今敏『東京ゴッドファーザーズ』をめぐって

『東京ゴッドファーザーズ』2003 今敏
『東京ゴッドファーザーズ』2003 今敏

クリスマスという名の大喜利アニメ

今日はクリスマス。
ということで、クリスマスにちなんだ映画を取り上げようと思う。
クリスマスのちなんだストーリーは、古今東西、
バラエティに富んではいるのだが、そのなかのイチオシ、でいえば、
少し前のビリー・ワイルダーによる名作コメディ、
ジャック・レモン主演の『アパートの鍵貸します』か
ハーヴェイ・カイテル主演、ウェイン・ワンの『スモーク』あたりがズバリなのだが、
ちょっと渋いところで、ジョン・フォード、ジョン・ウェイン主演の
『三人の名付け親』もいいか、と考えたが、
今回取り上げるのはそのクリスマス西部劇から着想を得たという、
今敏による『東京ゴッドファーザーズ』というアニメの方だ。
この作品は映画という名のアニメであると同時に
単なるアニメ以上に見どころ満載の映画でもある。
実に興味深い現代的な視点がいくつも投与されているが、
シリアスすぎるでもなく、かといって、コミカルなその場主義的な
単純な物語に収斂しない“心に残る”作品として、語りたい魅力があるからだ。

まずは東京は単なる舞台ではない、というところから始めよう。
最初の前提は、「現代の東京を描く」ということではなく、
東京という街を通して出来事の傍観者である、という視点である。
今敏は、現代の東京をそのまま写すことをしなかった。
確かに、タイトルにあるように
一見すると東京という都市が映し出されている錯覚に陥る。
舞台の中心が「新宿」あたりの景観がベースになっているのは間違いない。
だが、これは資料写真を撮り集め、複数の場所から要素を切り出し、
そのシーンにとって都合のいい形に合成しているのだという。
よって、厳密にはこの映画に登場する東京は、実在する都市の再現ではない。
最初から“すべては創作である”と自覚された都市トウキョウの風景なのだ。

だからこそ、この街は、人を助けないし、裁きもしない。
ある意味、登場人物たちも皆、当然のように架空の存在であり、
なにかの象徴として描き出されている。
アニメならではの手法を駆使し、
そのリアリズムのフェイクがみごとに合わさって複合的リズムを刻んでいる。
それが『東京ゴッドファーザーズ』という映画の倫理であり、
制作者の視点そのものでもあるというのが見えてくる。

物語は年の瀬の東京、しかもクリスマスで雪も舞う。
炊き出しに集まる公園住まいのホームレスの三人組が
その後、ゴミ集積場に捨てられた赤ん坊を拾うというところからスタートする。
登場人物は3人のメインキャラクター、
いわゆるオネエキャラ、元ドラァグ・クイーンのハナちゃん、
つぎには自転車屋家業なのに自称・元競輪選手のギンちゃん、
そして家出高校生少女のミユキ。
彼らがその赤ん坊「清子」をめぐって話は展開する。
その赤ん坊の親を探し出す過程において
ハナちゃんは擬似的な母性本能と葛藤するそぶりをみせながら、
同時に孤独というものの本質を直視する。
一方でギンちゃんは、かつての家庭の記憶を交錯させつつも
最後に、娘との思いがけぬ邂逅で、みずからの転落人生の感傷にさめざめと浸り
そして、ミユキは清子によって父親の存在がにわわきちらつきはじめ
こうして、擬似共同体の運命に寄り添いながら
それぞれの身の上にまつわる諸々の秘密が暴かれてゆくのだ。
いや、いつの間にか、最後にはそれらがうまく、というべきか、
落語のようなオチを以て合点がゆくように設計されている。
設定だけを並べれば、いかにも企画先行のアイデア映画に見える。
だが今敏は、この無茶ながらの設定をうまく吟味し引き受けている。
むしろ、これはいうなれば、“大喜利のお題”なのだ。

人生とは、往々にして無茶な出題をしてくるものである。
人はそれに、準備された正解ではなく、即時に応答するしかない。
『東京ゴッドファーザーズ』は、その応答の様子を、
80分という制限時間の中で成立させてみせる試みであるのだ。
監督自身が語っているように、人の一生はせいぜい80年ほどだが、
その中には幸運や災難、合縁奇縁、説明のつかない出来事がいくつも起こる。
この映画は、それら一生分の劇的瞬間を80分に圧縮するという、
しかも最大限にドラスティックに、そしてドラマチックに、話を膨らませるという
いささか無謀な企画でもあるのだ。
しかし、少々の無茶はアニメーションの機微よって自在に転がされる。
だから展開は過剰気味にもなる。
偶然が重なり、再会が続き、あり得ないほど出来事が詰め込まれるが、
しかしそれはなにも誇張ではない。
そう感じさせないところに、この作品の妙がある。

この作品においては清子は救済者ではない。
クリスマスのプレゼント風に差し出される、文字通り大喜利の素材だ。
だから、別段この子に個性は宿さない。
今敏ははっきりと、赤ん坊を「無意識の象徴」であり、
「意味のある偶然の一致」をもたらす存在だと語っている。
つまり赤ん坊は、登場人物たちの内側にある「求める心」を映し返し、
それを顕在化させる触媒にすぎない。
劇中で起こる幸運や災難は、すべて彼らの無意識に呼応した因果であり、
けして神の介入などではない。
同様に、ホームレスという設定も、社会問題の写生ではない。
それは誰の中にもある弱さや脆さ、自責や後悔の象徴なのである。
赤ん坊もホームレスも、あくまでストーリーの素材として扱うところに
アニメとしての面白さが乗る、まさにそんな感覚なのである。
だからこの映画は、感情移入に向かわないし、
間違えても泣ける作品だともいってはならない。
観客は、彼らを「かわいそうな存在」として
抱きしめることすら許さないからであり
求められるのは、起きている出来事を寓話として読み取ることなのだ。

とはいえ、『東京ゴッドファーザーズ』には、泣かせる要素が揃っている。
貧困、家族の断絶、罪と赦し、赤ん坊。
最後は断絶がアメーバーの細胞のように元の鞘に収まってゆく。
そうして観客はどこか一歩引いたまま映画を見ているうちに
エンディングがくるのだ。
その理由の一つが、本作が実写ではなくアニメーションであることにある。
アニメーションは、身体の温度や感情の粘度を持たない。
その代わり、構造や配置、象徴性を明瞭にするといったところか?
今敏は、情を煽るためにアニメ作品として選んだのではないだろう。
情というものを一度、客観化するために選んだ、そう思えるのだ。
情はここでは共有されるものではなく、観察される現象であるのだと。
運命やペーソスすらも、安易に信じるべきものではなく、
一つの題目として配置されているというわけだ。
そのため、リアリズムとロマンは溶け合わない。
両者は並存し、時に引き裂かれたまま同居することになる。
この「重なり目」、あるいは「裂け目」こそが、
この映画の独特の手触りを生んでいる基盤なのだ。

この映画に神の介入はあるのか。
結論から言えば、神はいない。
だが、神を必要としてしまう人間を、徹底して描いてはいる。
「意味のある偶然の一致にあふれた世界」とは、
世界が最初から意味づけられているということではない。
意味のない偶然に、人が耐えきれず意味を与えてしまう、
その瞬間が描かれているのだ。
偶然は、後から意味を帯びる。
それは神の設計ではなく、人間の解釈の習性である。
そのために、東京、ホームレス、捨て子、
それらは必然として、最高の題材として物語を構成するのだ。

今敏はインタビューで、
「彼らを見ている街というのが制作者の視点だ」と語っている。
この一言は、本作の立ち位置を決定づけているといえるだろう。
東京は、登場人物に寄り添わない。
救わないし、裁きもしない。
ただ、年末の雑踏の一部として、出来事を黙って見ている。
だから観客も、神の位置に立つことを許されない。
許されるのは、街と同じ高さで、ただ見ていることだけだ。
この都市的な無関心こそが、ニューシネマ的な距離感を生む。
あえていってしまおう、『東京ゴッドファーザーズ』は、
アニメーションで撮られたニューシネマなのだと。

子どもの頃のクリスマスは、ある意味、奇跡を信じる日だった気がする。
いまよりも素朴で、娯楽や享楽が限られていた時代ならではの思い。
だが、この映画のクリスマスは、信じすぎないための日である。
奇跡など起きない、起きることは稀であるという諦観だ。
それでも夜はやってくる。
人生という無茶なお題に、人は即興で応答してしまうのだと。
『東京ゴッドファーザーズ』は、人を泣かせるための映画でも、
救済を約束する映画でもない。
それは、大喜利アニメをニューシネマ風に観ることで、
少しだけ大人になるための映画なのだ。
そうした視野が世界を形成するのだと。

編集された東京が、ただそれを見ている。
むろん、座布団は出ないし、拍手もない。
だが、オチは見事に成立はする。
その静かなオチの感覚にこそ、
このアニメが映画としての格調を備え、
クリスマスの時機にこそ観返されるべき理由なのである。
メリークリスマス、この映画に、鑑賞者に加護あれ。

Paul Simon – Homeless

強い感動に包まれるというよりも、どこか一歩引いた場所に立たされる感覚が残る『東京ゴッドファーザーズ』。今敏が描いた東京は、現実の写生ではなく、あくまでフィクションであり寓話だ。そんな作品に向け、リアルな肌触りの音の風景を贈ろう。

レディスミス・ブラック・マンバーゾなど南アフリカ共和国のミュージシャンが参加し製作されたポール・サイモンの「Homeless」は、そんな『東京ゴッドファーザーズ』のストーリーにも、驚くほどよく馴染む曲だと思う。1986年のアルバム『Graceland』に収録されたこの短い楽曲には、物語らしい物語がない。誰がなぜホームレスなのかは説明されず、ズールー語のコーラスが意味を超えて空間に響く。そこにあるのは、社会的問題の告発でも、哀れみの感情でもなく、ただ「居場所を持たない状態」そのものだ。そう、ここではじめて、映画との繋がりを感じる。ホームレスとは、場所を持たないものの総称なのだ。貧しいものでもなく、虐げられたものでもない人間が、本来の居場所を求めてさすらう、このライブバージョンからは、とくに、そんなホームレスたちに、幸あれ、そう力強く後押しする思いを感じるのだ。