文学と音楽をめぐる調べ(後半)

Elle est retrouvée ! Quoi ? l’éternité. C’est la mer mêlée    Au soleil.
また見つかった! 何が? 永遠が。 それは、海と番った、太陽。

読み語るムジカと聴き視るポエジア(詩・スポークンワード編)

なんでもかんでも“詩的”だ、として片付けるのは好きではないのだが、
どうしてもその“詩的”な世界というやつにひっぱられてしまう。
詩のもつ魔力というやつか?
これは、コクトーがよくいっていた言葉で、
poemとpoesieとを取り間違えてはいけない、
という警告に呼応するものだが、
言葉を使って詩情を謳いあげたのが一編の詩(poem)だとすれば、
ポエジーというのは、むしろ、言葉にならないものの総体であり、
気配のようなもの(コクトー的には媒体というべきか)であるからかもしれない。
といって、そのあたりをグダグダ説明しようとしてみると、
どうしても本来のポエジーのもつ精神性からは遠ざかってしまうことになる。
なんでもかんでも“詩的”だとして解釈していると、
そういった一種の火傷を負ってしまうものだが、それが意外と気づかない。
まるで、低音火傷のようなものなのかもしれない。

が、そんなジレンマを抱えながら、
ここでは、あえて、詩を音楽とを共鳴させる試みに寄り添ってみたい。
文学性からひとまず離れてみて、音楽ありきから、言葉ありきへと回帰し、
最終的には完全にポエジー空間に身を委ねる試みだ。
少なくとも、音楽家や詩人たちにとっては
それこそが根底にあるものだから。

文学と音楽をめぐる調べプレイリスト

Hector Zazou feat. Anneli Drecker & Gérard Depardieu – I’ll Strangle You

アルチュール・ランボーの没後100年(1991年)を記念して制作されたトリビュート・アルバム『Sahara Blue』の冒頭を飾る「I’ll Strangle You」は、フランス映画界の巨星ジェラール・ドパルデューによる朗読(語り)とアンネリ・ドレッカーのヴォーカルが共演する重厚なコラージュである。“声と音で再構築されたランボーという存在”の顕現である。まさに、詩をめぐる音楽的追悼の冒頭にふさわしい幕開けといえるだろう。

詞はランボーの『Les Illuminations』のなかのいくつかの詩片を寄せ集めた「Phrase」とされた詩に基づいており、“生への渇望と抑圧された暴力衝動の交錯”というランボー文学の核がそのまま響く。タイトル「I’ll Strangle You(お前を絞め殺してやる)」には、ランボーの早熟な詩に漂う破壊的エロティシズムと、いけにえのように純粋な情熱が揺れる姿勢を、音として呼び起こすような響きがある。

音は、ビル・ラズウェルの重厚なベースが絡むアンビエント/エレクトロニックなうねるトラックをBomb the Bassのティム・シムノンがリミックスし、そこに絡むドパルデューの語り声は、熟成された闇のテクスチュアのようであり、暗転する言葉の向こう側に、早熟の詩人の未完成な魂の叫びが聞こえてくる。

『Sahara Blue』の日本版初回盤(1992年リリース)には、デヴィッド・シルヴィアンが “Mr. X” の仮名で歌唱と作詞・ギターを担当した「To A Reason」という貴重なトラックが収録されていたが、シルヴィアンが当時ヴァージン・レコードと契約中であったため、この「To A Reason」と「Victim of Stars」がリード・ヴォーカルを含むトラックであることが契約上問題視され差し替えらている。
この楽曲は、アルバムの構成においてランボーの詩世界へと静かに導く役割を果たしており、詩人としてのランボーの感性と、シルヴィアン自身の詩的感性表現が見事に重なり合う一曲でもある。

Serge Gainsbourg:Baudelaire

セルジュ・ゲンズブールによる「Baudelaire」は、ボードレールがジャンヌ・デュヴァルに捧げた詩「踊る蛇(Le Serpent qui danse)」を下敷きに、彼の音楽的解釈として結実した作品だ。原詩は『悪の華』第1部「Spleen et Idéal」に収められ、黒人混血の恋人ジャンヌに注ぐ視線を、熱帯の幻視と官能で彩る。艶やかな髪の匂い、しなる腰の曲線、それは“弾む蛇”となって、恋人を、詩人を、聴く者を絡めとる内容だ。

ゲンズブールはこの詩の響きを、ラテンのリズムに乗せてそのまま音に封じこめた。彼の語りは呪文のようにリズムを刻み、官能と幻想を横断する。まるでボードレールの耽美が、20世紀のフレンチ・ポップに憑依したかのようだ。単なる引用ではない。詩が音に、言葉が香気に、恋が幻覚に変じていく危険なロマンチシズムが漂う。

そこに浮かぶのは、ジャンヌ・デュヴァルという“黒いヴィーナス”の幻影。詩人を愛し、破滅させた女。その影にゲンズブールは音の衣をまとわせたのだ。詩と音楽が重なった瞬間、私たちは詩人の見た夢を、歌として聴くことができるだろう。

ボードレールとゲンズブールをつなぐ橋、それはボードレールの詩作において極めて重要な概念のひとつである「correspondances(コレスポンダンス)=照応・対応・共鳴」によるものといっていいだろう。それは、自然と人間、感覚と感情、目に見えるものと見えないものが呼応しあう神秘的な宇宙の構造だ。つまり、「万象は互いに反応し合い、万物は照応している」という象徴主義の根底にある世界観への共鳴と、そこにジャンヌ・デュヴァルという悪女に捧げられた詩の一節を引用しつつ、音響としてのフランス語の美しさ、詩の響き、エロスと死の気配を声で可視化する試みがなされた歌なのである。

Emily Dickinson · David Sylvian

David Sylvianの「Emily Dickinson」は、現代音楽風のアレンジの楽曲のなかに、その名が示す通り、孤高の詩人エミリー・ディキンソンの幽玄な肖像に寄り添う。とはいえ、これは現代の孤立した若い女性を描いた寓意的曲である。薬物依存を脱しながらも人との接触を避け、虚構のつながりのなかに閉じこもる彼女。彼女はその生をディキンソンになぞらえ、美化し、孤独を仮面のようにまとう。

「誰にも送られぬポストカード」とは、届かない感情の象徴であり、〈キスもなく、他人の慰めもない〉人生は、まるで意図された“引きこもり”の美学だ。だがその美はどこか痛々しく、Sylvianの語りに近い声とノイズ交じりの陰影ある音響は、内面のざらついた空虚をあぶり出している。

そして、詩人ディキンソンの再解釈ではなく、「彼女の名を借りて孤独を飾ろうとする」シルヴィアンの現代の自己演出が映し出されているともいえる。孤独と愛の不在、そしてSNSのような疑似的な共同体が提供するつながりの幻想——「Emily Dickinson」は、そんな時代の鏡として響く、深く静かな嘆きの曲である。

Scott Walker : Clara

かつてウォーカー・ブラザーズで一世風靡したスコット・ウォーカーの音楽的変遷はここでは書かないが、この『The Drift』あたり、後期のスコット・ウォーカーのアルバムを聞けば、彼が向かおうとしていた場所を心底体感するだろう。この「Clara」という曲は、ムッソリーニの愛人クララ・ペタッチが民衆に虐殺された凄惨な史実を題材としている。だがこれは、歴史の再話ではない。音楽は、記憶の墓標として響き、肉声の詩として聴こえるのだ。

極度にミニマルな構成、揺らぐ弦、炸裂する不協和音の中で、ウォーカーは自らの低く凍りついた声を「暴力の語り部」として差し出す。象徴的なのは、豚肉の塊を実際に殴って録音したという音だ。これは比喩を超えた暴力の現場であり、聴覚を通じてリスナーの身体に痛みを刷り込む行為でもある。

音楽はここで、メロディではなく拷問をなぞり、歌詞はポエジーというより断末魔の断章だ。「Clara」は、芸術が政治的記憶を背負い、歴史の皮膚を剥ぎ取る手段になりうることを証明する。ウォーカーは、音楽という名の「音によるレクイエム」によって、リスナーの鼓膜に焼きつけるのだ。

スコット・ウォーカーの音を聴いていると、映像的で、あのデヴィッド・リンチの世界感にも近いものを感じるが、文学的にみれば、サミュエル・ベケットからは沈黙と空白の詩学、あるいはブレヒト的な疎外効果を意識した「作品を批判的に見る姿勢を観客に促す」作劇法をとり、とりわけ詩的なイメージのずらし方、意味の解体、視覚と聴覚の交差といった要素においては、W.S.グレアム(スコットランドの詩人)や、散文詩に近いワインバーガーの作品群が反映されている。その声は、オペラ的でもあり演劇的でもあり、音としての肉体性と恐怖を宿した、哲学的残響を帯びた歌詞構造を用い、聴覚の迷宮を構築する礎になっているように思える。

Talking Heads:I Zimbra

意味を捨てた先にある感覚の詩学、そしてその混沌を音楽に昇華するアヴァンギャルドの奇跡といってもいい「I Zimbra」は、Talking Headsとプロデューサーであるブライアン・イーノが織りなした、実験性とリズム感が交錯する開幕のメッセージだと受け止めていい。その歌詞は、ヒューゴ・バルによるダダ詩「Gadji beri bimba」を直接引用したもので、意味を超えた「音の言葉」が並ぶ音響詩をロックミュージックの系譜のなかに置き換えた野心作だといえる。

言語の崩壊した意味を否定し、声そのものに詩を委ねる「言葉なき詩」を模索し、“言語を遊びへ”と転じる破壊的な芸術へと向ったバル。その詩行を、Talking Headsはアフリカン・グルーヴとエレクトロニックな質感で包み込み、意味を解読させずに身体へ直接届くリズム詩として再構築した。

デヴィッド・バーン自身がインタビューで、この“ナンセンス詩”を用いることで、「歌詞に内容を負わせない呪文的声」を実現したいと思ったのだ」といい、まさにダダが戦争後の世界に対して発した「言葉のカウンター」であり、その精神を新しいロックの入口に据えた曲である。

ヒューゴ・バル(Hugo Ball, 1886–1927)は、ドイツ南部のプファルツ地方に生まれ、詩人・哲学者・演出家・思想家であり、20世紀初頭のヨーロッパで最も急進的な芸術運動のひとつであるダダイズム(Dadaism)の創始者の一人で、詩人のエミー・ヘニングス(後に妻)とともに、チューリッヒにキャバレー・ヴォルテール(Cabaret Voltaire)を設立。ここを拠点に、多国籍な亡命芸術家たちとともに、従来の芸術観を破壊する「ダダ」の運動をスタートさせた。その生涯と思想は、アヴァンギャルド芸術の歴史に深い刻印を残したが、代表作「Gadji beri bimba」はその最たるもので、言葉を“意味”から解放し、純粋な音として再構築するという、言語への反乱と祈りの詩を、ときに魔法使いのようなコスチュームに身を包み、この詩を唱えることでまるで呪術師のように観客を挑発しました

Steve Reich : Come Out 

スティーブ・ライヒの《Come Out》は、音の詩学を剥き出しにした前衛の響きがする。そこでは言葉はもはや意味を伝えるための道具ではなく、反復とずれによって、音そのものがひとつの詩といっていい。

“come out to show them”——このたった一節が、暴力に抗う黒人青年の証言として最初は明瞭に響く。だが、ライヒのフェイズ・シフティング(位相のずれ)という手法によって、その語句は徐々に揺らぎ、重なり、エコーとなり、ついには音響の渦へと変容するのだが、その過程は、言葉が意味を脱ぎ捨て、音の肉体性だけを残す脱構築の儀式そのものといえるだろう。

語ることを禁じられた声が、音の中で自律し、裂け目を通って聴く者の心に直接侵入する。テープの機械的なループが、歴史の記憶装置へと化すとき、この作品は沈黙への抵抗であり、音楽の名を借りた祈りとなる。

《Come Out》とは、痛みの語りが音響詩となり、沈黙の中に声を解き放つ装置なのだ。ライヒのミニマルは、冷たい実験ではなく、抑圧された存在が音のゆらぎのなかに微かに“出現する”その瞬間の詩を、物理的に組み上げた、ともいえ、先の「It’s Gonna Rain」とともに、彼のテープ・フェイズ作品の金字塔である。

「Come Out」は、アフリカ系アメリカ人青年ダニエル・ハミルトンの証言音声を素材にしたテープ作品として知られている。彼は1964年のハーレム暴動後、警察によって不当な扱いを受けたとされる「ハーレム・シックス」の一人。作品に用いられた音声は、作家・人権活動家のソル・レヴィンが記録したインタビューの一部で、ハミルトンが「I had to, like, open the bruise up and let some of the bruise blood come out to show them」と語るフレーズの一部、つまり“come out to show them” だけを、ライヒはこのリール・テープのループとして用い、フェイズ・シフティングという手法によって音のテクスチャーを変化させていく。この曲は当初、Merce Cunninghamのダンス公演のための曲だったが、やがてライヒ自身の音楽的出発点となり、フェイズ・ミュージックの先駆けとして評価されるようになった。

TOM WAITS:9th & Hennepin

トム・ウェイツの『RAIN DOGS』に収録の「9th & Hennepin」は、都市の闇に潜む夢の残骸を、呟くように語りかける異色の詩的朗読曲だ。その語り口には、まさしくチャールズ・ブコウスキーの影が濃く映っている。荒んだ街角、剥がれかけたネオンサイン、人生に疲れた男女、そして漂う酒と煙草の匂い。これらはすべて、ブコウスキーが生涯描き続けた都市の片隅の断章でもある。

ウェイツの声は、まるで詩人が夜のバーで一杯やりながら綴ったメモ帳をめくるかのような酔いどれのつぶやきだ。ドーナツに娼婦の名がつき、誰も小さなものは持ち込まないと言い切る街――そこにあるのは、感傷ではなく、生の鈍痛だ。酔いどれ詩人ブコウスキーが吐き出した“真実”は、ウェイツの音響詩に姿を変え、音になって滲み出す。

語りが終わる頃、我々はもう“曲”を聴いているのではなく、詩を生きている。つまり、それが、ウェイツとブコウスキーの美しき共犯関係なのだ。

『BIG TIME』は、トム・ウェイツの音楽を視覚芸術として再構築した作品であり、ミュージック・フィルムとしても演劇作品としても稀有な完成度を感じさせる。まさに、サミュエル・ベケットとクルト・ヴァイルとチャールズ・ブコウスキーが三人で作ったような、舞台と現実の狭間に揺れる夢幻譚だ。

Public Image Limited:Religion I

Public Image Ltdの記念すべきファーストアルバム『Public Image』のなかでも最も異質で、ジョン・ライドンらしい「Religion I」は、苛烈な宗教批判を、音楽という形式を超えて内なる声の記憶として提示したマニフェストである。バックトラックのほとんど存在しないこのトラックは、ポストパンクというより、ポストミュージック、あるい演劇的呪術と呼ぶにふさわしい。冒頭からライドンは、カトリック的信仰の構造、信者の従順性、教会の偽善を撃ち抜くように糾弾し、まるで怒れる旧約の預言者のように言葉を吐き散らす。その声は歌ではなく、説教のパロディであり、詩のような咆哮であり、聴く者の中に沈殿する無自覚な信仰への盲従を揺さぶる。

この曲は、パンクが持っていた攻撃性を言葉そのものの暴力性へと純化した作品であり、ライドンのキャリアの中でも最も「芸術」と呼ぶにふさわしい瞬間だろう。静謐の中に響くこの咆哮は、未だに耳と倫理を試す音の異物である。

「Religion I」における彼のスタイルは、拡大解釈をすれば、アレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズのビート文学、さらにはアントナン・アルトーの残酷演劇にまで通じる要素があるが、ライドンはそのような形式を無視する異端の表現者である。ジョニー・ロットンというキャラクターが、シェイクスピアの『リチャード三世』から強い影響を受けたとライドン自身が認めているように、つまり、“演じる詩人”としての自己認識が、彼の文学的立脚点の一つだともいえる。言葉だけが突出することで、聴くというより、浴びる体験が生まれる。そしてその言葉は、宗教だけでなく、社会的イデオロギーそのものの洗脳性への告発でもあるのだと。

Lou Reed:The Bed

ルー・リードが晩年に遺したアルバム『The Raven』は、ただのトリビュートではない。エドガー・アラン・ポーの詩と小説を、現代の音と声で再構築する壮大な“ダーク・オペラ”にしあがっている。実にドラマチックな高揚がある。

原作『大鴉(The Raven)』の〈Nevermore〉という哀切なリフレインは、ルー・リードのあの独特の声に変換され、まるで詩人自身の亡霊が歌い直しているかのようだ。だがこの作品の核心は、“再現”ではなく“変容”にある。ポーの幻想は、朗読と音響、ロックと語りの混合によって、21世紀の黄昏に蘇るのだ。

語り部として参加するウィレム・デフォーやスティーヴ・ブシェミの声もまた、亡者のささやきのように響く。狂気と悲哀、愛と死。ルー・リードはポーの物語を通して、自らの内部の闇をも解体し続けた。『The Raven』とはつまり、詩人たちが残した黒い羽根のような沈黙に、音楽という息吹を吹き込んだ一枚のネクロノミコンなのである。

「The Bed」は、実は彼の1973年のアルバム『Berlin』からのセルフカバーであり、この曲が『The Raven』で果たす役割は、非常に特異かつ示唆的である。楽曲と朗読が交互に配されるなかで、ポー文学の要素とルー・リードの詩的な詞世界が見事に融合している。その中にあって、「The Bed」はポーの死のテーマに直結する“現代のゴシック”として再配置されており、死体の傍らで語られる愛、悔恨、そして堕落。それは単なる愛の追悼ではなく、むしろ精神的荒廃と死への耽美主義、あるいは「死を見つめることでしか生を感じられない」というニヒリズムすら感じさせる文学的深度を与えている。

Patti Smith:Spell

アレン・ギンズバーグの《吠える》(Howl)が切り開いた詩の可能性は、ロックとパンクの時代を経て、パティ・スミスによって新たな声帯を得た。ギンズバーグがジャズのリズムにのせて叫んだビート詩は、都市の喧騒と魂の叫びを言葉に封じたが、パティはそれを肉体に宿した。彼女の詩と歌は祈りと呪詛の狭間をさまよう魂のブルーズであり、「詩人として歌う」という姿勢は、ギンズバーグの詩的行為のロック的継承ともいえる。この「Spell」では、アレン・ギンズバーグの詩「Howl」の末尾、“Footnote to Howl”の全文朗唱で構成されている。詩が祈りとなり、祈りが呪文となる瞬間を捉えた特別な楽曲だ。

〈Holy! Holy! Holy!〉と繰り返されるその詩は、狂気も、孤独も、タイプライターも、ゴミ箱さえも神聖だと謳う――あらゆる存在を救い上げる詩の祝詞だ。パティの朗唱は、ギンズバーグの声を受け継ぎつつ、女性詩人の肉体を通じてそれを再び世界に響かせる。

「Spell」は、単なるカバーではなく、“詩の継承儀式”であり、“言葉に息を与えるパフォーマンス”といっていい。ギンズバーグの亡霊とともに、彼女は詩を再召喚し、ビートの火を次代に灯す。かつて「詩はロックになる」と言った彼女が、ここでは「詩は魔法」であることを証明している。それは、言葉で世界を変えようとした者たちへの賛歌なのだ。

パティ・スミスにおける表現の核に位置するのは、アルチュール・ランボーとアレン・ギンズバーグという、時代も背景も異なる二人の詩人の「魂の共振」だ。とくに、ランボーは、パティ・スミスにとって「神格化された若き詩の殉教者」だった。彼女は彼の生涯を自らの人生に重ね、「ランボーのように、詩を通じて世界を転覆させたい」と願っていた。若き日のパティは、ランボーの詩句を書き写し、彼のポートレートを部屋に飾り、彼の放浪を自らの内なる旅路と重ね合わせるほどに入り込んでいた。たとえば彼女の代表曲「Land」では、幻視的なイメージと言葉の奔流が交錯し、〈Go Rimbaud, go Rimbaud, go Johnny go go〉とランボーの名がリフレインされる。ここでのランボーは、詩人であり、音楽のドライヴであり、現代の預言者として召喚されている。

BRUNO GANZ :Lied vom Kindsein

ブルーノ・ガンツの声は、囁くようにして世界を包む。ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』の冒頭で、ガンツ演じる天使ダミエルによって、静かに朗読される詩。まだ天使だった頃、彼らはただ「見ていた」。ペーター・ハントケの詩「子供時代の歌」は、そこにあるのは、情報でも意味でもない。まなざしの記憶だ。
子供だったあの頃、人は名づける前の世界に住んでいた。言葉がまだ物と溶け合っていた。名詞に捕らわれる以前の、原初的な見ること。それをハントケの詩は、曖昧な形のまま、やさしく思い起こさせる。

Als das Kind Kind war,
wusste es nicht, dass es Kind war…

子どもが子どもだったとき、
子どもが子どもであることを知らなかった…

この反復は、喪失された無垢の時間への鎮魂であると同時に、どこか音楽的に響く。詩が言語の枠を越えて感覚に戻る運動でもある。ヴェンダースは、映画という視覚芸術に詩を接ぎ木し、沈黙のなかに聴こえる言葉を再生した。だからこの詩は「語られる」より「見守られる」ものであり、まなざしとまなざしがすれ違う、祈りのような詩なのだ。

ブルーノ・ガンツはECMに「Hölderlin」や「Wenn Wasser Ware」といったより文学よりの録音物が残っている。ハントケの詩が”無垢な視線の回復”をめざすのに対し、ヘルダーリンの詩は“崇高なるものへの昇華”を求めるものであり、ガンツの声は、前者では風のように軽やかに漂い、後者では大地のように重たく響く。その両極のあいだで、詩の言葉は音楽と呼応し、まさに「詩の音楽」あるいは「音楽の詩」のように聞こえる。

Brian Eno&David Byrne:The Jezebel Spirit

ブライアン・イーノとデヴィッド・バーンによる『My Life In The Bush Of Ghosts』は、音楽というより現代の“口承”である。そのタイトルは、ナイジェリアの作家エイモス・チュツオーラの小説『ブッシュ・オブ・ゴースツの中の私の生涯』から取られている。だがこの作品は、小説の物語をなぞるのではなく、むしろその“語られ方”――異界と現世の声が混線する語りの構造をサウンドで継承している。

このアルバムで用いられるのは、楽器ではなく“声”だ。ラジオの説教師、イスラムの祈り、エクソシストの叫び――世界中の匿名の声が、断片化され、ループされ、ビートに絡みつく。それはまるで、死者の森を彷徨う「私」が、精霊たちのざわめきを身体に刻みつけられるような体験として聞くに相応しい。

イーノとバーンは、録音という魔術で「音のブッシュ」を構築した。そこに宿るのは、人間ではなく、声の残像=ゴーストたちの生である。まさに、「この世」と「あの世」のあいだに存在する音楽だ。
この「The Jezebel Spirit」はその中でも、悪魔祓いの録音を用いた、最も呪術的で語りの深層に近い場所にあるトラックで、チュツオーラのように、現代と原初、技術と精霊、声と亡霊を一つの肉体=サウンドトラックに宿らせた試みが聞こえてくる。

『My Life in the Bush of Ghosts』は、1980年代初頭にあって世界の声を「音楽素材」として再構築した異形のアルバムであり、文化的・政治的・音楽的に多層的な意味を持ちます。イーノとバーンという異才の協働によって、“聴くこと=世界を再編すること”という意識を音楽に刻印した、まさに「現代音響文化の金字塔」と呼ぶにふさわしい作品だといえる。引用される声の内容、たとえばアメリカの保守的なラジオ説教やイスラムの祈り、儀式的な呪文などは、ポストモダン社会における言葉と権力、宗教とテクノロジーの交差を示唆しているが、とくにとくに“The Jezebel Spirit”で用いられた悪魔祓いの録音は、当事者の許可がないことが後に問題視された。

Stravinsky: Histoire du soldat 

コクトーとストラヴィンスキー。前衛詩と革新音楽が、ひとつの寓話で出会ったとき、それは演劇でもバレエでもない、“語られる劇”となった。1918年に誕生した《兵士の物語》は、戦争と亡命という時代の裂け目から生まれた小編成の作品でありながら、言葉と音の関係を根底から問い直す実験でもあった。

コクトーの朗読は、実に音楽的だ。とはいえ音楽に従属する語りではない。むしろ、詩が独立した存在として歩き出し、ときに音とぶつかり、ときに舞い踊る。その声は兵士であり悪魔であり、運命そのもののようでもある。彼の朗読が加わることで、寓話は紙芝居的な構造を超え、言葉が音楽の楽器の一部となるというわけだ。

ストラヴィンスキーの音楽は、民謡・ラグタイム・行進曲が交錯し、伝統の重力から解き放たれたような自由さを帯びる。そこにコクトーのナレーションが加わることで、音は詩を刺激し、詩は音を挑発する。その緊張と遊戯のなかに、20世紀が夢見た「総合芸術」の姿が浮かび上がる。

《兵士の物語》は、語りと音が互いに自立しながらも寄り添う、稀有な詩と音の演劇である。コクトーはそこに、詩人としての自らの肉声を刻みつけ、音楽のなかに詩が生きる場所を発明したといえる。

《兵士の物語》は、家に帰る途中の兵士が、悪魔に出会い、ヴァイオリンと引き換えに「未来を知る本」を手にするところからはじまる寓話的ストーリーだ。富と名声を得るも、幸福を失い、王女を癒すためにヴァイオリンを取り戻すのだが、富と名声を得るも、幸福を失い、王女を癒すためにヴァイオリンを取り戻す。この寓話は、ファウスト的(魂と引き換えに知を得る)構造を取りつつ、音楽と語りのリズムによって反復されるのだが、「警句」や「定型詩のようなセリフ」が多く、それこそコクトーの詩的センスが呼応し、この詩劇をみごとに芸術作品に彩っている。

Plastic Ono Band:Hashire, Hashire!

オノ・ヨーコには、まだジョン・レノンと出会う前、ニューヨークのフルクサス運動や前衛芸術シーンの中で活動していた頃の結晶である、『Grapefruit』という詩集のようなものを書いている。それだけでも、オノ・ヨーコという人は、ジョン・レノンよりも偉大だと思えてくる。もちろん、ジョンとヨーコは、それでもってひとつの伝説を作ったし、ジョンの偉大さは不偏だが、オノ・ヨーコという異物を単独で切り離した時に感じるオーラは、まずは彼女の言葉(声)の感性、こだわりだ。そして、彼女の「声」は単なる発話ではなく、肉体から分離し、聴く者の無意識に忍び込む“音の魔術”であることを改めて感じさせられる。

新生Yoko Ono Plastic Ono Bandとしてリリースされた『Between My Head and the Sky』のなかでも異彩を放つ日本語タイトルの曲「Hashire, Hashire」。「Hashire(走れ)」というシンプルな言葉の反復が、呪文のように空間を揺らす作品でありながら、不思議な寓話の世界に引っ張り込まれる。それはどこか、演劇チックな展開をともなった、寺山修司の世界にも通じる呪詛的な響きと現代美術の洗礼が交錯する世界の啓示であり、それはオノ・ヨーコの身体そのものが、音楽に詩を走らせていることの生々しい証だ。

オノ・ヨーコが2009年に再起動させたユニット新生「Plastic Ono Band」の目玉はなんといってもコーネリアスの小山田圭吾やチボ・マットの本田ゆかなどの新進気鋭のミュージシャンの参加だろう。単なる“過去の再演”ではなく、現代の音楽表現と前衛精神を結び直すための場として再構築されたプロジェクトとして、新たな命が吹き込まれている。このユニットの特徴は、単に音楽グループではなく、詩的思想のコレクティヴとして機能していることだ。なんだか、オノ・ヨーコの声さえ若返った気さえしてくる。

プレイリスト一覧

  • Hector Zazou feat. Anneli Drecker & Gérard Depardieu : I’ll Strangle You
  • Serge Gainsbourg : Baudelaire
  • Emily Dickinson : David Sylvian
  • Scott Walker : Clara
  • Talking Heads : I Zimbra
  • Steve Reich : Come Out 
  • Tom Waits : 9th & Hennepin
  • Public Image Limited : Religion I
  • Lou Reed : The Bed
  • Patti Smith : Spell
  • BRUNO GANZ : Lied vom Kindsein
  • Brian Eno&David Byrne : The Jezebel Spirit
  • Stravinsky : Histoire du soldat
  • Plastic Ono Band : Hashire, Hashire!