赤い砂漠、死に至る病
タイトルバックからして不穏だ。
全てぼやけた工場風、そして電子ノイズ。
炎、炎を吐く煙突、工場地帯の全景、
そのあとようやく人間へとファーカスが移ってゆく。
まるで、デュアン・マイケルズのシークエンス写真のようなオープニングだ。
アントニオーニ、初のカラー作品である『赤い砂漠』はそうして始まる。
その後、全編を覆うグレイトーンのなかにも、
煙突から上る黄色い煙、緑鮮やかなコートの女、
外装ブルーの小屋に真っ赤な壁の部屋etc
赤とは別に豊かな色彩がちりばめられ
そこはかとなく広がるその映像美はもちろん、
やはり、アントニオーニのミューズ、モニカ・ヴィッティの存在が
なにより支配する映画で、いかにもシネフィル好みの雰囲気が揃っている。
ジャンルは、ヒューマンドラマ〜ラブストーリーに分類されるとしても、
そんな安っぽい娯楽要素はどこにもない。
あのタルコフスキーもお気に入りというだけあって
そういえば、『ノスタルジア』にも通底する空気感も感じられる。
至って芸術指向の高い、難解な部類の映画になっている分
誰もが楽しめるような映画とはいえないのだ。
かなり、観るものを限定する映画だといえる。
モニカ・ヴィッティ演じるジュリアナは
裕福な家庭の人妻だが、精神に病を抱えていて
のっけから、子供と連れ立って歩く途中に、
見知らぬ男の食べていたパンを買いとって
草陰で貪り食う、そんなちょっと異様なシーンから始まる。
夫は、交通事故によるノイローゼだと言っているが、
必ずしもそうではないということが次第にわかってゆく。
病院に入院していたのも、どうやら自殺未遂からのことで、
夫との間にも、すでにすれ違いの溝が深く刻まれているのだ。
アントニオーニといえば、「愛の不毛」を謳う作家などと言われるが、
ジュリアーナは「愛」そのものと「アイデンティティ」の間で揺れている。
他人が信じられないのだ。
そしてまた、自分自身さえも信じられなくなってゆく、
そんな不毛の連鎖に苦しんでいる女なのである。
おまけに、子供にさえも見透かされて、行き場がなくなってゆく。
逃げ道として、夫の同僚である男にすがろうとするも、
それとて何ももたらしはしない、まさに不毛の堂々巡り。
そもそも不倫、つまるところ恋愛を目的とするような女でもなく、
そう簡単には解決されることのない類の問題を抱え込んでしまっている。
ストーリーを追っていても面白くもなんともない映画だし、
ラブストーリーと言っても、別に心昂るようなものもない。
ひたすら、モニカ・ヴィッティの憂いにつきあうことになる映画である。
退屈といえば退屈だろう。
見る人を確実に選ぶのはこの点だが、
唯一の盛り上がりである、港の小屋内でのブルジョワ仲間内の乱痴気騒ぎも
伝染病の件で、またしてもジュリアーナは精神を取り乱す。
そう、これは要するに“死に至る病”そのものだと気付かされる。
モニカ・ヴィッティにはそそられる。
相変わらず、いい女であることは間違いない。
個人的な趣味でいえば、好きな女優の一人だが、
『情事』以来アントニオーニの映画では、多かれ少なかれ、
こういった役柄がすっかり定着しており、
イメージがすでに出来上がってしまっているというのが
残念といえば残念な気がする女優である。
他にも、ブニュエルの『自由の幻想』や
ジョゼフ・ロージー『唇にナイフ』と言った、
趣の違う映画でのモニカ・ヴィッティをみていると
それなりに存在感を発揮しているのだが、
それなら、フェリーニ作品やヌーヴェル・ヴァーグ映画でも
アヌク・エーメを引き合いに出すまでもなく、見てみたかった女優なのだ。
この『赤い砂漠』では、相手に振り回されるよりは、
自らが相手を振り回す側の厄介な女を演じているが、
けして能動的な女、悪女の類いというわけでもない。
またぞろ、受け身というわけでもない、
実に曖昧な立ち位置で、どこへ向かうのかもわからない危うさがある。
そこに魅力が滲むというべきなのだろうが、
まさにアントニオーニ映画を象徴する女優なのである。
ちなみに、アントニオーニとモニカ・ヴィッティの蜜月期は
この映画の後に解消されることになるのだが、真相はよくわからない。
この映画に漂う不思議なムードにおいて、
人間の孤独感、あるいは疎外感を際立たせるように
ジョバンニ・フスコのこれまた無機的なミュージックコンクレートとともに
無機質な工業地帯がベースに展開されるのだが、
同じ工場の煙突風景を、しばし画面に挿入した小津映画とは
対極の趣向であり、まさに反ハリウッドスタイルの憂いが重たく
そして気怠くのしかかってくる。
この不思議な重力感こそがアントニオーニの描き出す世界であり、
それを体現する女優こそがモニカ・ヴィッティなのである。
ラストシークエンスが、またオープニングの工場地帯へと戻り
煙突から上がる黄色い煙をみて
子供に「毒だから」と説明するジュリアーナ。
鳥はそれを知っていて、煙突の上は飛ばないのだと。
いったいあれは何の象徴なのだろうか?
想像を膨らませていけば、
その“毒”によって精神をむしばまれたととれるのかもしれない。
そう思うと、ジュリアーナが抱える不安は
現代人固有の意識の顕れ、と言うことも出来るだろう。
目に見えぬ危機と背中合わせの女からもれる言葉に
言い知れぬ虚無が漂っているのはそのためだろうか。
Do While:OVAL
アントニオーニの映画の抽象度には、やっぱり、インストの電子音楽が合うと思った。ここでは、モニカ・ヴィッティの緑の鮮やかなコートをみて、Ovalの緑鮮やかなサードアルバム『94 diskont』を思い出したので、その一曲目「Do While」を。最近ではあんまり、この手の音を聞かなくなったけど、マーカス・ポップのOVALのエレクトロニクス・ノイズ・グリッチの音にはほんんとびっくりした。当時はまだCDが全盛期だったし、実際CDエラーとかの音をサンプリングしたりして、境界線のない音楽をこんな風に心地よいミニマルな音に変えたコンセプトが素晴らしいと思った。ここから先の音楽シーン全体に、あまりコンセプチュアルな音にはあまり興味がもてないし、ちょうどそのターニングポイントにあった音として、今でも安心して聴ける。現代が抱える闇に漂う不安な音響といえなくもないけど、それより心地よさが優っているOVALの音って、いびつながらも優しい永遠性をおびた楕円形の夢心地を届けてくれる感じだ。まさに体内回帰な音だね。
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