続編:富山県立美術館を訪ねて

早く故郷を離れてしまった私個人についていえば、ふるさとに対して言い知れぬ借りを抱きつづけている。おそらく私はそれを精算しきれずに死ぬかも知れぬ
瀧口修造
実は、この大竹伸朗展にはまだ後日談がある。
東京ー愛媛ー富山と巡回した国内展覧会のラストを飾る場、
富山県立美術館での展示にも足を運んだのだ。
そもそも、富山県は我が両親の里でもあり、
むかしから馴染みのある土地だったこともあるのだが、
実を言うと、美術館のある富山市にはこれまで一度も行ったことがなかった。
その意味を兼ねて、2017年にオープンした
この富山県立美術館へゆく名目が、個人的にあったわけだが、
その前に、これを機に、もうひとつ、今回は富山が生んだ詩人
瀧口修造の墓詣に是が非とも行ってみたかったのである。
瀧口修造という人は、いわずもがな、我が国の戦後前衛芸術には
欠かせない存在の詩人であり、稀有な美術評論家でもあった。
あの草間彌生や武満徹の才能を早くから見出していた人である。
彼の魂はいまなお、この日本という狭い土壌のアートシーンに
少なからず影響を与え続けていると、僕自身は感じている。
そんな偉大な詩人の生誕地、富山市大塚(旧・寒江村)の地をたずね、
そこに眠る氏の墓碑を一目詣ておきたい、ということで、
それをかねて、「大竹伸朗展」にも再度足を運んだというわけだった。
まず、富山駅からタクシーを拾い、目的地「龍江寺」を告げるも
地元の運転手すら知らない場所。
まさに、辺鄙でのどかな日本の農村である。
とうぜん、氏の生家もないし、目立ったものはなにもない。
だが、確かにそこには瀧口修造の墓石があった。
シンプルに「瀧口修造」の名があり、
裏側には、デュシャンより贈られた「Rrose Selavy」の名が刻まれていた。
ぼくは携帯した自分の絵のファイルをその場に置いて
しばし、この詩人と対話することになる。
まさに、慧眼で澄んだ眼差しを持つ人物を前にする
当時の無名のアーティストの思いそのものだった。
もちろん、そこに言葉もなにもない。
ただ手を合わせ沈黙が流れ、ぼくはその場を離れた。
タクシー運転手は、そんなぼくの思いに興味を示し、
そういえば「宇和島駅」の看板が気になっていたと告白し
いい勉強にになったとぼくにささやかな感謝の意をつぶやいた。
そんなひとときのエピソードをへて、
富山県立美術館での二度目の「大竹伸朗展」を観て回った。
前回の国立美術館での展示とは若干の違いこそあれ
展示は内容に差はなかったが、
《スクラップブック #72》を元にした大規模な作品「透過性記憶層」なるものが、
2階ホワイエのガラス壁面に展示されていた。
これは、外界の光と景観を取り込んで、作品がさらに魅力的に見えた。
これは立山連峰を望む全面ガラス張りの壁面を特徴とする美術館ならではの、
開放的な空間を演出が活きた面白い試みだと思った
まさに、「ガラスの街」として知られる富山ならではの企画であり、
ガラス工芸の伝統と現代アートが交差する場として、
地域の文化的背景を反映したこの美術館ならではの貴重な展示だといえる。
これを見れただけでも十分に有意義だった。
ちなみに。この美術館三階フロアの一室に、
瀧口修造コレクションの展示室が設けられおり。
その場もゆっくりと鑑賞できた。
そこには、これまで本でしかみたことのないオブジェが陳列されていた。
先の墓碑の裏側にあったデュシャンより贈られた「Rrose Selavy」の看板から
赤瀬川原平の1000円札裁判の押収品やオノ・ヨーコの作品、
それとは別に、無名の作家たちから贈呈された作品
またビー玉やミニカーといったなんでもないもののまで、
まさに玉石混交のオブジェが立ち並んでいた。
そんなオブジェを眺めながら、
ぼくは氏の次のような言葉を思い返していた。
私は世の蒐集家ではない。ガラクタに近いものから、「芸術作品」にいたるまで、すべてが私のところでは、一種の記念品のような様相を呈していて、一見雑然として足許まで押しよせようとしている。
それらは市場価値の有無にかかわらず、それには無関心な独自の価値体系を、頑なにまもりつづけているように見える。
瀧口修造「物々控」より
瀧口修造の偉大さは、決して権力や実績に執われることのない、
有名無名わけへだてのない眼をもった人であったことだ。
そんな氏のゆかりの地への訪問は、
僕個人にとっても縁のある地ということもあって、
今回の富山県立美術館での「大竹伸朗展」がなにより感慨深い体験となった。
君 : SAKANA
電車をいくつも乗り継いで
君の住む町へと向かう
だれもまだ君のことは知らない
いろんな人に君をみせたい
いろんな場所に君をつれていきたい
SONG BY SAKANA
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