虫の知らせを無視することなかれ
ニコラス・ローグによるカルトな人気を誇る『赤い影』は
『鳥』、『レベッカ』などヒッチコック作品で知られる
女性小説家ダフニ・デュ・モーリエの短編
『いまは見てはだめ(原題「Don’t Look now」)』からの映画化で、
ことさらイギリスでの評価が高いサスペンススリラー作品である。
『赤い影』と言うのは邦題ならではのもので、
配給会社がつけたイメージタイトルなのだが
映画の内容からすれば、実に暗示的で、的を射たタイトルともいえる。
「赤」は、ここでは明確に血の色(死)に直結するアイコンそのものといっていい。
いたるところに散りばめられているから、いやがおうにも目を惹く。
溺死した娘クリスティンも、殺人鬼の小人も、
纏っているが真っ赤な洋服であり
兄弟ジョニーの自転車も赤(そういえ帽子も赤だった)、
霊能者は赤いベストを着ているし、
寝ていた司祭がなにやらふと目を覚まし見つめるのも赤い蝋燭である。
主人公は赤い柄のマフラーを身につけ、その妻は赤いブーツを履き、
葬儀では霊柩船に赤い花が艶やかに飾られているのをみても
明らかに赤という色にメッセージが込められているのだ。
それにしても、殺人鬼の小人が実に怖い。
振り返って全貌が明らかになったときのあのギャップまたがすごい。
その上、動機も存在も何もかもがよくわからない異様さに、
人によってはトラウマになりそうなまでの恐怖が漂う。
いわゆる「赤頭巾ちゃんホラー」のはしり、とでもいうべきか。
娘を事故で失った呪縛に引きづられ、
その後を追うように、ジョン・バクスターを待ち構えているのが
この老婆のような小人殺人鬼で、まんまと殺されてしまう。
初対面のレストランで、双子の姉妹のひとりに死んだ娘の存在を指摘され
あまりの的確さに思わず卒倒する妻ローラ。
以後、その世界に開眼したかのように
夫に降りかかる危険を回避するために
助言を与え続ける妻ローラだが、夫は一向に耳を貸さない。
その啓示を与える盲目の霊能力者も霊能力者で
常に不気味にジョン・バクスターの行末に怯えている。
いわゆる霊感をめぐるサスペンスにおいては、
こうした不気味さ、怖さをどう演出するかが映画の決め手である。
その意味では、ローグは少し過剰なまでにそれらの要素で煽り立てることで
サスペンスの臨場感を盛り上げるのに成功している。
ところで、ぼく個人は、霊感のある人、
あるいは、それ相応の不思議な能力を持っている人のことが
おりにつけ羨ましいと思うようなタイプの人間だ。
そんな思いがあるのは、
自分には驚くほどそうした能力がないと自覚するからだが、
とはいえ、時々、能力なのか、妄想なのか、
虫の知らせなりなんなりで、
なんとなくもその気配を感じることがないわけじゃない。
誰だってもっている程度のことかもしれないが
そこはおろそかにしてはいないつもりである。
なにより、見せない世界の存在を強く信じてさえいるのだ。
ところが、この主人公はそんな特殊能力を持ち合わせていながら
自覚なく生きており、たびたび能力にくすぐられながらも
残念な結末をむかえてしまうという、そんな話なのである。
よって、中身はまさにスピリチュアルスリラー映画そのものといえる。
あのM・ナイト・シャマランによる『シックス・センス』などに近い感覚を覚えるのだが、
そういえば、『シックス・センス』では、霊が見える直前に
必ず赤いアイコンが表示されるというネタフリがあったが
おそらくは、あれはこのニコラス・ローグの『赤い影』へのオマージュだったのかもしれない。
そう思うと合点がゆく。
ドナルド・サザーランド演じる建築技師の運命を見ていると、
結局、人はどこまでこの見えない力に敏感であるか、
あるいは素直になれるか、ということを深く考えさせられる。
主人公は、自分の娘が池で溺れるという予兆を
文字通り胸騒ぎとなったものの、いざかけつけたときにはすでに手遅れで
娘を溺死させてしまい、以後その後悔を抱えながら
憑かれたようにその幻影の中で、
その能力に翻弄されるかのように悪夢を見てしまうのだ。
霊能者はいう。
「能力は災難でもある」のだと。
冒頭ですでに、暗示的に写真のなかの教会の赤頭巾のなぞを
用意周到にちらつかせていたのはすべて、結末への導線なのだ。
現場であわやと言う落下事故の危機をも経験しているし
あるいは船上の妻と預言者の幻影を見たりするが
何を隠そう、それは自分の葬儀へと向かう幻視なのである。
彼は、無自覚ながらも霊能力者なのだ。
その力を通じて亡き娘が父親の危険を知らせているのだと。
にもかかわらず、このベニスの地では危険があるから
一刻も早くこの町を離れるべし、と言うせっかくの助言をも無視し、
娘のイメージを喚起させる赤いコート着た連続殺人犯小人の老婆に、
誘われるようにして後を追ってしまう。
そして、まんまと最後にナイフで切りつけられ殺されてしまうのだから
なんとももどかしい思いに駆られてしまう。
いみじくも、その場所はバクスター夫妻がいつか迷いこんだ場所なのだ。
最悪の状況を回避できなかった主人公の悲劇とは裏腹に
ジュリー・クリスティ演じる妻ローラは
その能力がなくも、霊能者の警鐘を深く受け止め
最愛の夫を救おうとするが、どうにもならない。
夫婦というものは、そうした考え方の違いでいったん行き違ってしまうと
運命共同体としては致命的な事態を引き起こすと言うことだろうか。
価値観を共有できていない夫婦を襲う悲劇、という見方もできるだろう。
ニコラス・ローグという人をちょっとなめていた気がする。
改めてその才能を見直し、再認識させられたのがこの『赤い影』である。
軽視と言っても、ミック・ジャガー主演の『パフォーマンス』や
ボウイ主演の『地球に落ちてきた男』ぐらいしか観ていないが故に、
長年、ローグという作家が、おそらくキワモノか
一部で熱狂的な支持を受けるだけのカルト作家程度にしか
見ていなかったことに尽きるのだと思う。
それが180度ひっくり返されてしまったのが
この『赤い影』を見終わった率直な感想だ。
誰にでもとっつきやすいタイプの映画なわけでもなく、
また簡単に理解できるようなタイプでもないように見える。
ゆえに、ここにもカルトの称号を与えて済ますこともできるが
それ以上に奥のある映画に思える。
一見すると、スピリチュアル、霊性をモティーフにした
スリラー要素満載の映画であることは間違いないのだが、
それ故に、見応えは『パフォーマンス』や『地球に落ちてきた男』とは
比べものにはならないある種の方向性と力をもっている。
かといって、独りよがりな非商業主義映画というわけでもない。
ちょうどポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』や
アントニオーニの『欲望』に匹敵するような、
作家主義的な傾向の強い作品である。
同時に、色々と謎解きが必要になってくる。
当然、その映画作家としてのセンスを十二分に堪能できるのだが、
一度見ただけでは理解におぼつかないところが多々出てくるが、
二度三度見るごとに、じわじわと謎が解けてくる映画でもある。
それゆえの予知能力であり、
それゆえの「赤」なのである。
ローグの出所を考えると、元々映写技師から映画に入った人で、
デヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』や
トリュフォーの「華氏451」などの作品で撮影を担当していることからも、
まずはそこを押さえておかなければならない。
映像に並々ならぬこだわりが見られる人であるのがわかるだろう。
故に、様々な映像へのこだわりも納得できる。
娘を溺死で失って以来、
妻との間に生じる微妙な心理の綾を縫って悶々とする夫。
自身に備わったサイキックな霊感を信じることさえできぬまま、
衝撃のラストを迎えるに至るのだが、
この映画の面白さは、なんと言っても、
最初から最後まで、いろんな場面に、物語の導線が敷かれていることであり
それを読み解く面白さだ。
だからこそ、ローグはカットバックを多用し、時空の演出を仕掛けるのだ。
その意味では、一見サイコスリラーと呼んでいいタイプの映画も
撮影技師として入ったローグの才能が十分反映されている。
一枚の教会の写真に写り込んだ赤いシルエットの人物の正体が
ラストの衝撃で明かされることになるわけだが
その際の赤が、すでにこの世とあの世を結ぶ色でもあったのだ。
この映画おける霊的視線はさることながら、
「映画に出てくる名セックスシーンベスト10」にも選出された
ジョンとローラの執拗なセックスシーンが注目される。
とくにいやらしさムードとは皆無であり、不自然なところはない。
むしろ、二人の良好な関係性が強調された
実に自然かつエモーショナルでスタイリッシュなシーンだが、
その分、あるその長さのほどが気になってくる。
ジョンとローラ、一組の夫婦としてみると
お互いに十分な愛情はあり、それぞれの思いやりも伝わってくる、
非常に釣り合いのとれた関係であり、
普通なら、その延長上に夫婦間の絡みがあるだけだ。
が、5分近くもそんなシーンを挿入するのはなぜだろう?
ただ一点、霊感という部分においては
夫はロジックや先入観を、妻はフィーリングを重視するがゆえの
いわば些細なすれ違いによって
決定的な事件を引き起こしてしまうことからも、
そうした男女間の感覚的なズレというものを描いている作品でもあり、
なんどか見重ねることで、そうしたことが
あるとき必然的に浮かび上がってくる映画でもあるのだ。
幻視や示唆的な映像の数々を散りばめ
不気味な預言者や恐ろしい殺人鬼を引っ張り出してまで
「死」=運命として、決定的な一打を見舞うことで浮かび上がる愛の形。
でなければ、この二人はただ単に幸せな円熟期にある夫婦像にしか見えない。
その幸福度とのギャップを描き出すための伏線として
この二人の愛の時間をより強調しているに違いない。
愛とはスピリチュアルなもの、決して上部だけの愛ではないのだ。
心だけが知っているのだ。
黒の舟唄 野坂昭如
『赤い影』はスリラー要素が満載の映画だが、そこには男と女の永遠に理解し合えないテーマが隠されているのだ。そういう思いで見返すと、なるほど、実にテーマは深い。そんな思いを歌にすれば、この歌がより深く沁みてくる。男というものはどうしても物事を理屈で考えるが、女というものは総じて、気持ちが先に来る。そんな思いを見事に歌い上げる野坂節「黒の舟唄」。最後の「あーあ」という嘆息が物語る哀愁がたまらない。
男と女のあいだには深くて暗い 河がある誰も渡れぬ 河なれどエンヤコラ今夜も 舟を出す. Row and Row Row and Row 振り返るな Row-Row
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