キエシロフスキ『トリコロール/赤の愛』をめぐって  

トリコロール/赤の愛 1992 クシシュトフ・キエシロフスキ

プラトニックな赤、遠くて近い愛の形

愛の反対は憎しみである。
が、それは究極であって、背中わせであって、
我々が日々直面させられる愛の真逆要素に持ち込む要因としては
大抵の場合、裏切りであり、期待からの失望なのだ。
むろん、個人差があり、時に思いこみや偏狭な思いが作り出す幻影、
という場合も少なくはないのだろう。

キエシロフスキによるトリコロール三部作
その最終章を飾るのが「赤の愛」。
ここでは一度失った愛の形を取り戻す過程が描き出されている。
その色からも、“博愛”と言うテーマで描かれてはいるのだが、
ラストのサプライズシーンを含め、
遺作として全てを包み込むような集大成の思いが強く感じ取れる。

赤といえば、情熱の色が浮かんでくる。
映画の小道具なら、小津安二郎の赤を思い起こすが、
嗜好であり、視覚的要素としての赤とは意味が違う。
ここでは、ポスター、車、カフェ、劇場、チケットetc
至るところにその赤が散りばめられているのは
閉ざされていた心に血が通いだす象徴のような色彩、
といったような意味が、どこかに含まれているようにも映るのだが、
心を揺すぶる色であることは確かである。

個人的に、三部作の中では「白の愛」推しなのだが、
ヒロインイレーヌ・ジャコブはこのテーマに相応しく、
赤が映える女の魅力がある。
佇まいや存在の確かさには、どこか慈愛に満ちた終始温かい眼差しによって、一人の頑な男の心を解き放つに至るのだ。
『二人のベロニカ』での抜擢以来、
キエシロフキの眼差しがこのミューズに注視されているように思え、
先の「青」でのジュリエット・ビノシュ、「白」のジュリー・デルピーとは
一線を画すような温度差さえ感じとれる。
作品自体の深みにもつながっているのは、
そんな秘蔵っ子に、ジャン=ルイ・トランティニャンを据えているからで
この老練なトランティニャンがまたぞろ素晴らしい。
孤独に生き、内なる闇を抱えている人間のジレンマの宿る眼差しで
静かにじんわりと伝えくるものがある。

盗聴を趣味にする老いた退官判事を演じているわけだが、
若き日のトランティニャン自身も、法律家を目指していたこともあり
ここでは、現実と虚構がどこかで重なってみえ隠れする。
人が人を裁くことの限界をとっくに感じてしまった人間の絶望感。
まともな神経の持ち主であればあるほど陥ってしまう罠なのかもしれない。
そこから今度は自身が違法行為に手を染め、習慣化するという矛盾そのものが
人間というものの心の闇の深さを反映しているように見える。

そんな複雑な心の持ち主に、他者からの博愛の思いがどう届くのか?
一匹の犬を介して、若く慈愛に満ちた学生ヴァランティーヌと出会い、
愛というものに疲れ、人間不信にさえ陥っていた
元判事ヴェルヌの心が次第に雪解けしてゆく。
心の隙を埋めるような交流が偶然に起き、
みずからの愚かさを認め、彼は自分から裁きに甘んじるのだ。

親子といっていいほどに歳が離れた関係性というよりは
心を閉ざした人間がどうやって人間回復をするかということの方が重要で、
色で言えばブルーからレッドへ、
寒色から暖色へと話がゆるやかに流れてゆく。
まさに血がじんわりと通ってゆく瞬間が描き出されている。
肉体の結びつきだけが愛の形ではない、と言わんばかりの、
二人の関係は実にプラトニックそのものだ。

キエシロフキの『愛に関する短いフィルム』や
『殺しに関する短いフィルム』でも
たびたび「覗き」という行為が取り上げられるわけだが、
ここではずばり「盗聴」がキーワードになっている。
見えない他人の心の中をのぞき見る行為といいえかえてもいいだろう。
不幸話同様、深刻であれ、他愛もないものであれ
所詮他人事にすぎないが、それは蜜のように甘くけだるい。
孤独な男にとっては、むしろ日々の生きる源にもなってさえいると同時に、
その経験値によって、物事の道理を無意識のうちに判断しているのは、
ある種、培った職業意識ゆえの病、といえるのかもしれない。

ヴェルヌは若い頃に、自分の恋人が他の男に寝返って
その男を判決で裁くという奇妙な体験を告白する。
そのことがきっかけに、職を退く決意をしたというから、
いかに深い傷を負ったかぐらいは想像できるだろう。
愛に乾いた男が、犬が縁で女子大生ヴァランティーヌと知り合ったからといって
なにも急に恋が狂い咲くような話になるわけでもない。
せいぜい、車のドアガラス越しに手と手を重ねる程度の純愛を保ちながら
心通わせるあたりの慎ましさがとてもいい。
これにはキエシロフキ自身が、その姿に晩年の思いを投影し
分身のごとく、ヴェルヌにその思いを重ね合わせていたのかもしれない。
そこには、もうひとりの若き法律家を目指す男がいて、
恋人がなまなましく他の男に寝取られるシーンを覗き見して失意を覚える。
これは若き日のヴェルヌにとっての悪夢の再現なのだ。

三部作のトリを飾るからか、単なる思いつきか、
乗り合わせたフェリーの転覆事故からの生還シーンでは
助け出された乗客に、三部作の主役たちを総登場させる
という強引技のドラマチックな幕切れを見せてくれる。
『青』のジュリーとオリヴィエはいいとしても
『白』のカロルとドミニクのカップルは、
片方は収監され片方が偽葬儀までした後だ。
そんな細かい指摘はさておくも、
キエシロフキにとってのこのラストシーンの意味は、
三部作を総括するとともに
みずからの映画人生への最大のリスペクトだったのかもしれない。

キエシロフキの映画では、しばし前触れというのか
未来を検知するようなシーンが多分に出てくる。
『二人のベロニカ』がそうであったように、
判事は、夢で50歳のヴァランティーヌを見、
フェリーの事故への暗示も随所に散りばめられている。
劇場での嵐、その嵐で剥がされた大きな外壁のポスター、
朝の日課のようなカフェのスロット、
ボウリング場での割れたグラス、細部に込められた様々な予知ショット。
しかし、キエシロフキの映画では
決して人を絶望に追い込むような終わり方をとらない。
むしろ、どこかに希望すらほのめかしながら、
愛の所在、愛の行方を見届ける、そんな終わり方をする。
ちなみに、二人の縁を繋いだ犬の名前はリタ。
それを日本語に移し替えれば「利他」ということになる。
単なるこじつけに過ぎないが、自分より他人の心を思うこと、
その精神は博愛というテーマにもろにかぶってくる深みがある。

ひとつ面白いシーンがあった。
老婆が瓶を回収ボックスに入れるシーンで
それは三部作すべてに挿入されていたが、
『青』でのビノシュはそれに気づかす、『白』のカロルは遠目に見つめるだけ
『赤』でのヴァランティーヌだけが近づいて手助けするシーンである。
映画のテーマがさりげなく映り込んでいるシーンだ。
愛犬にすら関心が薄らいでいたヴェルヌが
生まれた子犬を愛おしそうに撫でるシーンも印象的だ。
とってつけたようなシーンやショットは一切ないが
どこまでも余韻の残る終わり方でキエシロフキはメガフォンを置いた。
引退したからといって、映画愛への情熱が覚めたわけではなく、
新たにダンテの神曲をモティーフに
「天国・地獄・煉獄」三部作の構想していたというから
ひょっとしたら、どこかで再び映画作りを再開する可能性すらあったのかもしれない。
そう思うと返す返すも享年54歳は若すぎる。
が、その残された作品は実に豊穣だ。

I’m All Right- Madeleine Peyroux

キエシロフキの映画を見たあとにはなぜかマデリン・ペルーの歌が聴きたくなってくる。マデリン・ペルーはどのアルバムが特に好き、というのはないけれど、彼女の歌声にはどこか癒し効果がある。ウォルター・ベッカー、ラリー・クラインとの共作の3rd「Half the Perfect World」からのナンバー「 I’m All Right」は、幸せだとか愛だという直接的な言葉は歌われていない。傷を抱えているものに厳しい現実からも、すこぶる優しい瞬間が訪れる歌だ。『トリコロール/赤の愛』を見たあと、これがキエシロフキの最後の作品だからというのものあるけれど、三部作の主要人物が総登場するシーンをみて、悲しみ、寂しさ、なにもかも全てを受け入れる、つまりは清濁併せ飲むみたいな感じで、人生に絶望やら希望やらの思いを一旦置いておいて、大丈夫よ、と乾杯したい気持ちになってくる。そんな思いがこの歌からもじんわり伝わってくるような気がした。