中江裕司『土を喰らう十二ヵ月』をめぐって

土を喰らう十二ヵ月 2022 中江裕司
土を喰らう十二ヵ月 2022中江裕司

土の匂いのするシネマ

この先晩年をどう生きようか、どう過ごすべきか
いかに死を迎え入れるかなどと、
そんなことを考える歳になった。
終活というにはまだ実感もなにもないが
多かれ少なかれ、この先、そのようなことが中心となってくる。
といって、明確な答えも特別な計画すらないままに過ごすなか
さりとて、それを言葉にする難しさぐらいが実感できる今日この頃である。

普段、ただ何となく漠然と暮らして
漠然と見過ごしていることを一つ一つ見つめなおす機会は貴重だ。
そんなことを映画通じて考えさせられる良作、
中江裕司による『土を喰らう十二ヵ月』がリアルタイムに響いてくる。

水上勉の『土を喰らう日々』というエッセイがベースである。
そのエッセイは、若き水上が禅寺で覚えた精進料理を紹介していて
単なる料理本というわけではない。
その想いはおそらくは中江裕司にもあり、
脚本はむしろオリジナルに仕上がっている点でユニークである。
水上勉という作家を特に意識したことはなかったが、
少年期に禅寺で修行体験を元にした川島雄三『雁の寺』を初め、
吉村公三郎『越前竹人形』、はたまた内田吐夢『飢餓海峡』などで多少は触れてきた。
この作家の食を通したどこか仏教的な生き様に、共感できる自分がいる。
食がテーマとはいえ、これはある種、人生訓でもあるからだ。

その共感は、同時に『土を喰らう日々』の核にあるエッセンスだが
映画を通して、さらに感心したのはジュリーの存在である。
少年時代、京都の禅寺で修行したツトム同様、
京都に産まれ育ったという土壌の共通項がどこかにあるのかもしれない。
ここでは演じたジュリーはことのほか愛おしい。
若き日の華々しい栄光真っ只中のジュリーではない。
それこそ、われわれ一般庶民と同じく
歳を重ね、どこかで終活と呼べるような身をかかえて暮らす一人の男、
そんな佇まいに魅入られるのである。

俳優沢田研二については、これまでも何本かの映画で
色気がある面白い俳優だな、俳優ジュリーにも味があるなあ、
と思ってひそかに注目こそしていたのだが、
本人がどこまで役者稼業に力を入れていたのかまでは知らないが、
かなり、特異な位置にいる俳優だと思う。
俳優というくくりではみえてこない、
プロフェッショナルな役者にはないみずみずしさが漂っている。
74にして男優としての勲章を受ける本作では、
スクリーンに円熟味を増すジュリーがいるが
それがまさに等身大であるがゆえに、素敵なのだ。

いまでもステージで歌い続けていることからも、
かつてショーケンとその人気を二分したあのジュリーはジュリーであり、
そのライバルがいなくなった今でも
なんらかのこだわりをもって生き続けているという、
そんな思いが老いたジュリーにも風格として漂っている。

米をとぐジュリー、
はとを蹴散らすジュリー。
白い割烹着のジュリー。
救急車で運ばれるジュリー。

とくに何が起きるというほどのストーリーでもないが
13年前に妻に先立たれたツトムとその男やもめに
はいってきた恋人真智子の存在とかけあい、
そしてひとりで暮らす嫁の母親の死と
その死にまつわるちょっとした家族事情が絡むのだが、
今度はツトムがいっとき倒れ、生死をさまよい
二人の関係性にも影響してゆく流れにしずかなドラマが宿る。
ある一定の歳を重ねた人間には、
自然に訪れるようなことが普通に起きるのだが、
一つ一つに豊かな奥行きのある映画作りになっている。

ツトムの恋人である松たか子演じる真知子は、
ストーリーに呼応するように
薄い色香を漂わせながらもツトムに寄り添っているが
二人の関係性が映画にツヤを持たせているのがわかる。

人のならいとして、最後に帰ってゆく土の上で
その季節季節の旬な食材を求めて自然とともに生きる姿。
かっこいいという言葉よりも
ただ美しいと思うのが率直な感想である。
それは移ろいゆく日本の田舎の四季とうまくリンクしていて
この映画を際立たせている。

食材を含め自然そのものが重要な要素になっているのだが
主人公ツトムがみせる日々の暮らしぷりは
誤解を承知の上でいえば、ちょっとした贅沢にさえ映る。
都会を離れ、こんなきれいな土地で、趣ある古民家で一人暮らし
時々、恋人が小鳥のように現れ、帰ってゆく。
まさにロハスな生活体験を通し、
羨ましいほどのシンプルさを持って実に凛々しいのである。
裏を返せば、こうした贅沢と背中合わせに死が共存している。
それを覚悟して生きるからこそ、
より生活が瑞々しく、そして輝くのかもしれない。

もうひとり、この映画の重要な裏方
料理研究家の土井善晴の存在である。
演者もロケもストーリーに調和しているが
料理がイマイチでは当然映画は死んでしまうのはいうまでもない。
そんな命と言える料理を土井善晴がすべて担当している。
この土井善晴という人物を知らなかったのだが
そういえば、記憶の中にある声のトーンから
土井勝の御子息である、ということが分かり
なるほど、そういう縁なのか、と思い当たった。
かつては料理番組というものが隆盛を誇ったテレビで
数々の料理人の顔が浮かぶのだが、
この土井勝という料理人がいまだに記憶に残っているのは
あの物腰が実に優雅で、それが引き継がれている気がした。

この映画に、深い精神性を読み取ることは
そう難しいことではないが、かと言って、
大衆を置いてきぼりにするような難解な小難しさはない。
その意味では「料理」を通した人間の日常の営みに
携わる人間の精神が宿っている、というのは
実はとても高尚なことなのだ、ともいえる。
さりとて、そこをあえて離れて
自然体の思いで見ることで、
この映画の素晴らしさが実感できるような気がしたのである。

いつか君は:沢田研二

この映画で久々ジュリーの歌を聴いた。現状の日本の歌謡界のことはほぼなにもしらないが、物心ついたときから、ジュリーはスターだったし、その華やかな歌を聴いてきた。この曲は映画の主題歌ということもあり、映画のテーマや雰囲気に合っているし、曲も歌も等身大のジュリーにふさわしい良いスローバラードだ。

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