父と娘の捜索卓球便
片山慎三長編二作目『さがす』において、
ストーリーとキャスティングの妙はむろんだが、
西成という大阪の中でも、かなり特殊な地区の空気感が支配し、
この映画には不可欠な土台要素になっているのだと感じさせられる。
そこから全てが奇跡のようにつながってゆくのを目撃する、
どこか、コリアンノワールな雰囲気が漂うこのクライムサスペンス、
終始ダークサイドに展開される見応え十分な映画である。
「お父ちゃんな、指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」
お父ちゃんこと、佐藤二朗演じる主人公の原田智が
娘楓にそう言った後に失踪する話だ。
この親子、見た目を含めて、漫画『じゃりン子チエ』、
(いみじくも原作者はるき悦巳はこの西成出身だった!)
をなんとなく彷彿とさせる空気感とやりとりが交わされ、
言うなれば、おかしみの中にも緊張とサスペンスを持ち込み
ラストシーン、白眉な長回しによるピンポンラリーにまで至る、
浪花風情ならではの情動(ペーソス)が巧妙に織り込まれてゆく映画である。
ちなみに、指名手配中の犯人を電車内で見かけるエピソードというのは
監督自身、自分の父親から聞かされたネタで、
リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件の市橋を見たのだと言う。
そんな眉唾な出来事ことですら、二人が住む西成には許容しうる磁場がある。
中学生の娘を演じた伊東蒼の楓が、そんな父を探しだそうと町中を奔走し始めるのも、
智をはじめ、学校も警察も役人も、
周囲の大人たちが一向に当てにならないからであり、
中学生ながら、すでにそんなカラクリを見抜くほどに立派に成長している。
父親が言っていた指名手配中の山内という連続殺人犯が
原田のなりすましとして、ある日、突如目の前に現れるや、
話は時空の入れ子を交えながら、
いよいよ複雑な運命のいたずらをしかけてくる。
まさに、このしっかりものの娘を試さんといわんばかりの難題が待ち受けるのだ。
犯人が父親の携帯をもっており、そこに父親が絡んでいるのを知った娘。
窮鼠猫を噛むがごとく、楓は逃げる山内を
とっさの借り物の自転車で追いかけるシーン。
まさに映画版じゃりん子チエよろしく面目躍如たる熱演が圧巻だ。
この映画は時空ごと、登場人物ごとに各々視点が変わって
それぞれ探しもののベクトルが違って描き出されてゆくなか、
娘は否が応でも大人にならざるを得ないという状況下におかれ、
ただひとり、事象を冷静に見つめ「さがし」続けるのだ。
その意味では、この映画は、娘が父親を見守る映画ともいえるだろう。
自殺願望者の思いを幇助するため、という名目は
いまもSNSなど、闇で密かにとりひきされる現代的なテーマのひとつだ。
その実、サイコパスな殺人犯と知り合った原田智には、
筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病を抱えた妻公子がいて、
その妻の希死念慮に対し、ひたすら楽にしてあげたい思いが募ってゆく。
そんなときに、この山内に出会ってしまった原田が
この殺人犯の闇の事件にも加担してしまう。
清水尋也演じるこの山内というサイコパスな殺人鬼は、
相模原障害者施設殺傷事件や座間9人殺害事件などの特異な犯人像が
どこかで下敷きになっており、リアルな怖さがある。
山内が白いソックスに興奮する性癖があるのも、
かつての自殺サイト殺人事件からヒントを得たのだという。
自殺幇助を「救済」の名目だと口にはするが、
「本当に死にたい奴なんて誰もいなかった」などと吐き捨てる男だ。
実際は殺人に快楽を覚えるシリアルキラーとして、その不気味な存在感を醸し出す。
その非人間的無表情な怖さは特筆すべきところだが、
猫の屍体を埋葬したり、乾杯用にクーラーボックスにビール缶を冷やしたりと
ときおりのぞかせる人間味ある側面が、さらに人格の臨場感を膨らませている。
途中、原田の妻の殺害シーンが出てくるが、どこまでが事実描写なのかはわからない。
卓球台にひもをかけての自殺にみせかけたシーンは妄想なのだろうか?
そこから簡単に足が着くのだから、
手足が思うようにままならない妻自身が直接行ったとは思えない、
と考えるのが自然だろう。
とはいえ、妻思いの原田にとっては
山内の存在はいっときの救いになったのは確かである。
そしてふたりは、以後危険な共犯関係者を結ぶ。
そこから、自殺願望の人間たちの手助けをするという行為が「救済」として
いつのまにか、正当化され金儲けの手段と化してしまったところに
原田の人間としての弱さが覗く。
そこには、当然、娘の存在や卓球場経営といった
現実を考えたときに生じる単なる言い訳が見え隠れするのだが、
むろん、それを娘に知られるわけにはいかない。
父親ができることの哀しい限界がそこに横たわっている。
この映画の面白さであり、同時に読み解く難解さは、
我々観客が終始、映画の方向性への舵取りの先で、
物語を自分で補足し、想像しなければならない展開になっていることだ。
なるほど冒頭で智がハンマーを振り翳していたのは、
何もジャッキー・チェンに憧れていたわけでもなく、
そう、山内の魔の手への決別への意志だったのだろう。
案の定、その時がくる。
原田は、山内をハンマーで撲殺したあと、
自分の腹をナイフで刺して、自作自演を行う。
とっさにどこまで、娘のことを考えたかはわからない。
が、結局は、山内は死に自分だけ生き延びたのはいいが、
ムクドリという女性の自殺幇助の報酬すら額を誤魔化され、
懸賞金すらもいくらもらったかは不明なふがいなさだ。
しかも、そこから、悪魔の所業を受け継いでしまうのは
これもまた弱さなのか、あるいはさらなる欲望の目覚めなのか?
そんな姿を、賢い娘が見抜けぬわけがない。
その対決が、最後、あの奇跡のラリーへと向かうのだ。
娘は「やっと、見つけた。ウチの勝ちやな」という。
父親に、これまで散々心配をかけられ、
その娘の真摯な思いがひしひしと返ってくるとき、
画面は唐突に球が消え、アントニオーニ監督の『欲望』でのテニスラリーを思い出す、
音だけが聞こえる空ショットのラリーに変わる。
「なんの勝負やねん」と苦く返す原田の腹はすでに決まったのだと思う。
そのあと聞こえてくる警察のサイレン。
だが、話の結末はそこまでだ。
自首したのか、通報されたのか、
あとは勝手に想像するがいい、そう突き放すのがこの映画、
そして片山慎三のすごさである。
この映画を見るにあたって、なんの前情報もなかったからか、
最後まで見終わって、とても驚いた。
日本映画もここまできたか、それぐらいの重厚な力量を汲み取ったわけだか、
なるほどそのコリアンノワールな雰囲気からも、
片山監督は、ポン・ジュノの元(「母なる証明」)に助監督について、
現場ではかなり有能ぶりを発揮していたというし、
その後撮った初長編『岬の兄弟』も続け様に見たが、これまた驚いた。
共に内容は重いが、日本映画の未来に大いに希望を抱かせる、
なかなか凄い監督が現れたものだ
SOUL FLOWER UNION – エエジャナイカ
卓球の音をサンプリングした曲を思い起こせない。そうこうしているウチに、電機グルーブ(石野卓球)のことが頭に浮かんで、そういえば、SOUL FLOWER UNIONと絡んだ曲があったな、ということで、この「エエジャナイカ」は確か卓球のREMIXバージョンが存在するはずなのだが、みつからなかったのでコチラのバージョンを聴いてもらおう。いずれにせよ、SOUL FLOWER UNIONには映画「さがす」に対抗できるだけのパワーがある。このなんともいえぬカオス感はまさにコテコテ大阪のグルーブ感だ。
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