汝、隣人を愛しすぎることなかれ
恋愛とは必ずしも甘美なことばかりではない・・・
なにを当たり前のことをいうのだ、と思うかもしれないが
恋の代償は、なまじ心の痛みを伴うが故に他人にはわからない。
当人にとっては、すこぶる深刻な問題なのだ。
それが究極にまでいきつくと、死まで突っ走ってしまうこともある。
愛を軽んじてはいけない。
フランソワ・トリュフォー『隣の女』はそんな映画の一本である。
とはいえ、ただのつまらない不倫話という、
ある種、下世話なジャンルになりさがることもなく、
恋愛の美しさとむごたらしさの境界を
粛々と描いてみせるトリュフォーの手腕により、
いい映画だった、と口にするのも躊躇うほど
怖ろしい結末へと導かれてゆく。
なんと言っても、ファニー・アルダンが愛おしい。
言わずもがな、晩年のトリュフォーのミューズである。
そのトリュフォー自身、既婚者の身でありながら、
このアルダンとの関係を続けたという意味では
この『隣の女』こそはフィクションを超えた
特別な想いがこめられているのだと推測するにやぶさかではないだろう。
故に、不倫そのものの陳腐さや
どっちがいいかわるいかの論争など、この際どうでもいい。
ドパルデューよりも、ファニー・アルダンのマチルダに感情移入してしまうのは
男としての虚勢か、はたまたロマンチシズムか。
まさに“禁断の映画”という意味にまで押し上げてみれば
実にスリリングな恋愛映画がみえてくる。
とはいえ、個人的には『隣の女』のファニー・アルダンよりも
『日曜日が待ち遠しい』のツンデレ秘書の方が何倍も好きなのだ。
その魅力が念頭にあるがゆえに、この『隣の女』での非情な運命を受け入れた
ファニー・アルダンの鬼気迫る姿にひたすら加担して見てしまう自分がいる。
個人の感情など、この際どうでもいい。
そもそも、狭い町で、隣にかつて愛した、
しかも、今を以て、ときめき冷めやらぬほどの、
いい女が引っ越してくるという事態、
しかも共に別々の家庭を持っての唐突なまでの再会に、
フィクションゆえの強引さを感じなくもないが、
そこはさておき、故に映画として禁断の物語が成立するのは言うまでもない。
このストーリーで、深く肝に銘じるべきことは、
恋愛には別れ際の美学(覚悟)がなくちゃならない、ということなのかもしれない。
出会った二人がそのまま結婚に至り家庭を築き、
幸せな人生を共有し続けて死んでゆくなどという理想的なケースの方が
圧倒的にレアである以上、この別れ際を一歩間違うと
あとあと狂いが生じる、といった教訓にはなるのかもしれない。
とはいえ、一体どれだけのカップルが
別れ際を濁すことなく身綺麗に別れられるというのか?
悲しいかな、馴れ合いの果てに、いつの間にか消滅する関係、
そんな状況だけが漠然と浮かんでくるのが巷の恋の成れの果てだ。
ベルナールもマチルドも共に消化不良のまま、
流れに乗じて一旦は離れただけで、
再び出会って、焼けぼっくりに火が着いてしまうものだから、
いよいよもって、その教訓がなまなましく胸に刺さる展開になる。
最初はベルナールの方が狂おしいまでに浮き足立っていたのに
途中から徐々にマチルドの方に女としての業がメラメラ燃え盛り始める。
この辺りの推移も見どころではあるが、
マチルドが、最後、求め合う肉体の温度を感じながらも、
バッグからピストルを取り出し、元恋人の頭を打ち抜き
そのあと自らの頭をも同じように撃ちぬくことで
映画における真の犠牲者は、ベルナールの家族であり、
マチルドの夫であることさえも忘れるほどに、
この愛の痛み、苦しみを、
決して同情などでは生ぬるいものであると我々は理解するに至る。
まさに愛の代償である狂気に引き込まれてしまうのである。
二人の墓碑銘に似つかわしいであろう言葉、
「あなたと一緒では苦しすぎる。でもあなたなしでは生きられない。」
この想いが痛いほどつき刺さる無情の死。
それを第三者であるジュール夫人の目を通して語られる物語である。
その客観的視座こそがこの映画を陳腐な感情から切り離し
成立させているひとつの要因なのかもしれないと、
ふと我に帰る瞬間が用意されているのが救いである。
彼女こそは、かつて、自身の恋愛体験の傷を負って生きている女である。
それゆえに、放つ言葉に重みがある。
映画としてみれば、ほぼ救いようもなければ、
痛みばかりがのしかかってくる重い作品だとはいえ、
全体を覆うのは紛れもなく純度高きこれぞフランス映画である。
それこそ、ロメールの手にでもかかれば軽やかな話になり
トリュフォーはそれを格調高きサスペンス調の悲劇に移し替える。
舞台はアルプスを背景とする、のどかな地方都市グルノーブルの郊外で
レクリエーションとしてのテニス風景から
そして嗜みとしての絵本作家の一面を保ち、
互いのキッチンや食事風景が頻繁に挿入され、
ふたつのカップルが暮らす一軒家は実に温かく優雅に映る。
夫たちの職業は、それぞれ航空管制官に石油会社で油送船に携わっている。
ちなみに航空管制官に関しては、
ロメールの『飛行士の妻』からインスパイアされたと
トリュフォー自身が語っており、映画のなかでもそのシーンが登場するが、
『飛行士の妻』ではマリー・リヴィエール扮するアンヌの恋人の職業が
飛行士というだけで、それは設定上の話にすぎず
さほど物語に影響するほどのものでもなかった。
時おり覗かせる軽妙タッチもみのがせない。
ハワード・ホークス『赤ちゃん教育 』でのケイリー・グラントが
階段の手すりにひっかっかってコートが裂けるシーンを
ここではファニー・アルダンのドレスから露わな下着姿へとしてみせるのだ。
しかし、軽妙さはやがて、彼女の狂おしい愛に収斂されてゆく。
困惑するマチルドの夫フィリップの言葉、
「男は愛には素人だ」が強くのしかかってくる。
それは決して褒め言葉などではない。
家庭を破壊し、相手を追い込み、自らも生け贄となるのは
女の狂気に鈍感な男の哀れさでしかない。
男とは愚かな生き物であり、女はその上をゆくほどに破滅的だ。
そんな素人だからこそ、あえて恋愛プロにはなりたくはないのだと
男は強がってみせるのかもしれない。
くれぐれも別れ際は慎重に、そして誠実に・・・
最後にそんなアマチュアな男、ベルナールを演じた
ドパルデューの魅力についてもふれておこう。
若い時は、トリュフォーと同じく、大人が手を焼く子供で
少年鑑別所にも入ったことのある悪童だったというが
はまり役、シラノ・ド・ベルジュラックのような、
あの鼻の大きな男のイメージはあるものの、
大人になっても、その表情はどこか少年の面影を宿している。
けして美男子というわけではないが、
俳優としての存在感は決して小さくはない。
実生活では生涯に4度も結婚して、
それぞれに子供をもうけているほどのプレイボーイでもある。
トリュフォーはファニー・アルダンだけではなく
このジェラール・ドパルデューとの並びをみて、
この映画の成功を確信したと語っているほどである。
フランス映画、ことさらトリュフォーの描く愛は深い。
KIRINJI : 髪をほどいて
「恋は摩訶不思議なもの。あなたにすぐに会いたくなる」・・・キリンジの数ある名曲の中で、「髪をほどいて」が大好きなのだが、この曲を一人部屋で聴いているだけで、こちらも胸が締め付けられる思いがしてくる。内容は離れてしまった恋人への一方的な思いを歌ってはいるが、まさにフランソワ・トリュフォー『隣の女』のムードに合う曲に思える。恋愛とは、結局のところ、その相手と一分一秒でも一緒にいたい、そして会いたくなる、と言う素直な思いが支配している病なのだと思う。BIRDがこの曲をカバーしているが、やはりオリジナルの方が圧倒的に切ない。
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