ゲオルギー・ダネリア「不思議惑星キンザザ」をめぐって

ゲオルギー・ダネリア「不思議惑星キンザザ」

この世のすべては「クー」である

足をちょっとくの字に曲げ、両手をハの字にして第一声が「クー」。
それがすべてが円満にゆく挨拶の儀式。

そう、旧ソジョージア(グルジア)映画、ゲオルギー・ダネリアによる
カルト的人気を誇る脱力系SFコメディで
これが思わずツボってしまった。
そんな人、けっこういるんだと思う。

挨拶といえば、日本のヤクザ映画で見られるあの仁義
「お控えなすって」のキュート版といったほうが
少々古い、おっちゃんおばちゃん世代にはてっとり早いのだが
いまの人にピンとくる言い回しかどうかは定かではない。
相撲の土俵入りで、不知火型と呼ばれるスタイルがあるのだが
それに似ているな、なんてこっちは勝手に思ったものだ。
演じていた俳優があんこ型の小男だったからかもしれない。
グルジア出身の力士が土俵に上がる時代、
よもやダネリアが日本の相撲ファンだったとまでは思わないのだが、
コミカルなシーンになぜだかそんな親近感がわいたものだ。

カルトと言っても、おどろおどろしかったり
際物的な表現で誇張されているわけではない。
それゆえに「不思議惑星キン・ザ・ザ」において
「クー」に代表される、実にとぼけていながらも、
不思議な魅力に満ちた雰囲気が
日本でもコアなファン層獲得の一翼を担ったことは想像に難くない。
何ともほっこりとした気分をどう言葉にすればいいかだが、
とりあえず、「クー」といってほほえむだけで
その場は和み、気持ちが通じるのがこの映画の面白さだ。

とはいえ、話はそんなに単純というわけでもない。
それがレンフィルム(ロシア映画)の奥深さである。
時は1980年代の冬のモスクワ。
公開が1986年だから、
そうペレストロイカ時代手前のソビエトの空気感を想像してみよう。
時代の変革期、自由へのあこがれが多分に反映されている、
というのは間違いないところだが
いちいち映画にその空気を読み取るにはそれなりに骨が折れる。
そんな難しいことはひとまず抜きにしても
それまでのソビエト(ロシア)の体制を考えると
ここまでゆるゆるのオフビート感をまとっていることは
実に感動的なことなのだ。
なにしろ、旧ソといえば、泣く子も黙る検閲国家でもあったのだから。

もっとも、その空気を反映してか
本国ソ連では1570万人の動員したというから
国民の関心は高く、国民的大ヒットを記録し
その勢いは世界に迄広がったこの映画の愛おしさに
なんだかうれしさがこみあがてくる。

映画は、建築技師マシコフと学生ゲデバンが
町で出会った裸足の異星人のもつテレポート装置に触れたとたん
異星にワープしてそこから地球に帰還する、そんな話なのである。
考えてみれば、ロシア(ソビエト)は不思議な国で
もともとアメリカと絶えず冷戦を繰り返した大国であり
そのなかでも宇宙開発は大きなテーマであった。
そんな宇宙開発大国から生まれたにしては、実にアナログチックなSFである。
いきなり冬のモスクワから、惑星プリュクなるところへ瞬間移動でやってくると
目の前は広大な砂漠が広がっている。

そこにはハイテクもなにもない。
あっけないまでに木訥、かつ奇天烈なSFが展開されてゆく。
そこへやってくる小汚い格好のパッツ人2人が
ペペラッソなる釣り鐘のような円盤に乗って現れるのだ。
そこで、交わされる最初の言語が「クー」なのである。
「クー」というのは相手へのリスペクトを表す挨拶言語である。
というのも惑星プリュクではチャトル人が支配しており
被支配層のパッツ人はチャトル人に対しては常に敬意を示さねばならない。
その挨拶が「クー」だというからふざけている。
肝心のそのパッツ人たちは、身分を掲げる意味で
鼻にツァークという鈴を着けておかねばならない。
そしてこの惑星での最大の価値がマッチである。
ここでは「カーツェ」と呼ばれるが、
このカーツェがいうなれば貨幣価値をもつのだ。

いずれにせよ、すべてがゲーム感覚のようにチープで
いい方を変えれば、何ともばかばかしい規則で統制されている。
こうしてながめていると、いかにも国家への揶揄、
その体制への批判めいた側面を読み取ることもできるだろう。

星を支配する権力者エツィロップというのは
なんのことはない【police】の逆さ文字である。
つまりはソ連時代の官僚主義による腐敗体制への揶揄が読み取れるのだ。
映画を通して、国家への皮肉をところどころに忍ばせているのだが、
その描き方が乙なのである。

グルジアといえば、かのスターリンの出身地、お膝元であり
他の土壌以上の共産体制が敷かれていたのはいうまでもない。
そのばかばかしさ、矛盾などを直接的に描くのは
天に唾をはきかけるようなものである、
そう思ったかどうかはおいておいても
まともに批判すれば身が危ない。
その思いが制作側にはあるのだろう。
あえて、ゆるく、脱力系として描くことでみえてくるのは
国家のゆがみ、滑稽さなのである。

こうして描かれた世界は、裏を返せばかなり高等な芸である。
思い起こせば、哲学的テーマでSFを描いた
同じソビエトのタルコフスキーやソクーロフとは
全くその手法は違っているものの
豊穣なレンフィルムの土壌をきちんと踏襲しているのがわかる。
ひとつひとつのアナログ的な表現が徹底されているのも
裏を返せば、文明批判としてもみえてくるが
そういう固いことをぬきにしても、
まずは「クー」という挨拶で、この映画への親しみを共感すればいい。
深読みすれば、そこから人類愛が導き出されはしまいか?

ちなみに、瞬間移動やテレパシーといったような
SF的イメージは、同時にスピリチュアルな話にも相通じるところがある。
ゲオルギー・ダネリア監督の人となりまではわからないが、
そのフィルモグラフィーからも卓越した技量を備えた監督として知られるが、
その反動をうまく戯画チックに描き出された世界は
現実をこえた、どこかスピリチュアルで、未来的にさえ映る。

なにも小難しいだけが世界の現実ではないのだ。
どうも、われわれの世界はあまりにもシリアスすぎる、
宇宙人にそう指摘されてもしかたあるまい。
だからこそ、不思議惑星キンザザは、一向に平和的な未来が見えてこない
この虚しい国際紛争の数々に対するアンチテーゼ、とまではいわないが、
どこかで、人類の平和を望む楽観主義者たちにだけ贈られる
ささやかな癒し、あるいは夢物語なのかもしれない。

The B52’s:Planet Claire

「不思議惑星キン・ザ・ザ」に対抗できる楽曲はなかなかないんだな。まして、ロシアの音楽事情にも疎いなか、全く関連も関係もないこのThe B52’sの「Planet Claire 」を思い出した。「誰も死なない、誰も頭をもたない」惑星クレアからやってきた女の歌だ。「キン・ザ・ザ」同様、別段シリアスなSFでもなく、ナンセンスな歌だが、一応バンドはアメリカンニューウェーブに数えられ、デビュー当時から聴いていたバンドだ。絶妙のおふざけ感だけとれば、案外フィットするかもしれない。

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