恋愛に平安なし。地獄の門を潜るのは誰?
日本映画が世界にその威光を放っていた輝かしき時代を思い返そう。
黒澤、溝口、小津に今村、そんな大御所の名前の中に
この人の名前をついうっかり忘れてしまう。
衣笠貞之助という人。
日本映画で、先陣を切って最初に海外で認められた作品
『地獄門』を撮ったひとかどの映画人、それがキヌガサである。
作品はその勲章に、カンヌ映画祭でグランプリを受賞している。
まだパルムドールと言われる前の話。
その中の審査委員に、あの詩人にして映画作家のジャン・コクトーがいた。
「これこそ美の到達点」だと詩人の眼を爛々と驚かせたのが本作。
ちなみに、衣笠はサイレント時代に
『狂った一頁』という多重露光やフラッシュバックを用いた
前衛的な作品をすでに撮っていたのだが、
これはコクトー自身の処女作『詩人の血』にも通じる実験性が見て取れるもので、
コクトーはそのことを知っていたのだろうか?
見ていたら、知っていたら、さぞや親近感がましたに違いない。
そんな日本映画の輝ける栄光の嚆矢たる作品『地獄門』
この日本初のイーストマンカラー作品がデジタルリマスターで蘇った。
こちらはその昔、日本映画専門の映画館で見たきり、
すっかり忘れていたのだが、
何しろ、すでに30年近くの月日が流れているわけで、
改めて見直すと、絢爛豪華な色彩が鮮やかで
実に眩いことに驚いた。
それにしても、当時の衣装関係者の腕ってすごいものだなと感心する。
日本文化の奥深さに改めて感銘を受ける。
この映画そのものが美術品といっていい。
国宝級といっても決して言い過ぎではないだろう。
もちろん、それを再現するこの映画スタッフも見事である。
衣装だけでなく、セットにおいても
とにかく見ているだけでなんだかうっとりする。
平安末期に起こった平家と源氏の争い
ここは平家に軍配。
平清盛にまだ力があった頃の話だが、
政治や権力争いとは別に、男と女を巡る話。
それは今も昔も変わりはしない。
ただし、今じゃ、だいぶん倫理も意識もゆるゆるになってしまっている。
不倫という概念が、ここまで大ぴらに跋扈する時代だ。
そりゃ、一千年前とは違うのだ。
ある時、男が女を見染める。
女は既婚者であり、周りはそれは無茶な望みだと笑う。
それでも心奪われた男は力任せに奪ってやれるであろうことを疑わない。
女は男の押しに心揺れるが、夫への貞淑もある。
男は、それなら夫を殺してしまおうと考える。
そうして、女を娶るのだと女に言い聞かせる。
女はどうやらそれを避けることができないと了見するが、
その果てに幸福が訪れるなどとは考えず、
殊勝にも、夫の身代わりになることを決意する。
男は夫を一思いで亡き者にしてしまうが、
女が身代わりであったことを知ると、
自分の犯した愚かさに、煩悶する。
恥を許せぬ我が身を相手の男に差し出すが、
相手の男は命の取引で女は戻らないとして、
男は空虚と絶望に苛まれる。
ざっとそんな話である。
女の美談なのか、あるいは男の愚行か、
そんな単純な話なのか?
現代では、不倫など、そこら中に転がっている話で
今を基準に考えれば貞操を守った女の美談としてもいいのかもしれないが、
ふと、冷静になって、残された夫の気持ちを考えると、
これはこれで切ない話である。
夫は妻から、その事情をなにも聞かされていない。
つまり、妻は自分の心のなかだけで事情を呑み込み処理をした。
夫は自分の身代わりに妻を無くしただけではなく、
自分への信頼、自分と共に生きる相手としての思いを共有できずに、
ただこの悲しみに耐え続けなけばならない。
ある意味では、愚かな男以上に、哀れである。
だから、これは本当の愛を描いた作品には思えない。
愛ではなく、それぞれ個の思いのあり方を
晒しただけのものでしかない、そんな気がして
物語としては、あまり深入りできるものではないようにも思えてくる。
この愚かな男盛遠を演じたのが長谷川一夫。
当時の人気は絶大であり、二枚目の看板スターである。
女形で培った上目遣いの「眼千両」と呼ばれる眼差しに、
なるほど、確かに色気を感じさせるものがある。
この衣笠とは、同じ女形出身同志で気があったのだろう、
約50もの作品を共にしたが、
残念ながらこの『地獄門』と『狂った一頁』ぐらいしかしらない。
しかし、正直なところ、その芝居に今ひとつのめり込めないのも確かであるが
男女のきめ細かい心理劇を期待する方が間違っているのだろう。
対して、袈裟を演じた京マチ子。
妖艶であり、やはり、どこか能面のような顔つきにそそられる。
黒澤の『羅生門』、溝口の『雨月物語』がそうであったように、
やはり、古典を舞台にした時の存在感は
現代物以上に真骨頂を発揮する気がしている。
情念的な女としての肌理を存分に感じさせてきた女優だが
ここではそうした情感は強く望むまでもない。
けれどもこれは、絢爛豪華な時代絵巻として、
国宝級の美術品として拝むに値する映画である。
恋愛映画、男と女の愛憎ではないところで観る映画というものもあるのだ。
女形上がりのその美意識は十二分に発揮されている。
衣笠の監督作品はなんと、全118本を数える多産な映画人だが、
戦前のものはほとんど残されてはおらず、
戦後に撮られた十数本を数えるばかりである。
その辺りが、このアルチザン的な素養を持ちながらも
今ひとつ人口に膾炙しなかった要因でもあるのかもしれない。
何れにせよ、美を発見する映画として、
『地獄門』は世界に誇る日本映画の一本であることにはかわりはないのである。
衣笠に関しては先のサイレント、『狂った一頁』をめぐって
日本初の前衛映像の旗手としての重要な役割を
再認識するもうひとつの解釈もあるが
それはまた、いずれの機会に委ねるとしよう。
コメントを残す