オブジェとしての脳みそ
ちょっと奇妙なもののいいかたた言い方だが
常日頃、脳ってものにはすこぶるお世話になっている。
そんな実感をたえず持っている。
適度な睡眠、栄養、健全なる思考ぐらいでしか
わが脳をねぎらってやれないことがなんとも不憫だ。
そのことからも、もし、頭をぱかっとあけて
脳みそを軽妙にさっと取り出して
最高のオシャレ着洗いの洗剤かなにかで
自らの手でやんわり揉み洗いでもして、
気持ちのいい晴天の日にでも虫干しできたらなあ
そんな奇妙な妄想に駆られることがある。
ははは、あなたってロマンティストなのね?
といわれ嗤われるのはまだしも、
馬鹿かお前は!気持ち悪いな!
そんな風に思う人がいたら残念ではあるが、
自分は昔からそういう人間なのだし、
意に介さず、与えられた装置としての脳を
最大限にリスペクトすべくフル活用し
イメージのなかで自由に遊ぶ術に身を任せ
妄想や夢想、思い入れなどに日々時間を費やすことに
まったくやぶさかではないといっておこう。
その前に、
オレの名は、オレの名は、ハカイダー。
オレの、オレの使命、オレの宿命、
キカイダーを破壊せよ。
なんだか、この歌をふと口ずさんでしまうことがある。
これは石ノ森章太郎作『人造人間キカイダー』という
ヒーローものの悪役ハカイダーのテーマソングだ。
ハカイダーは、頭部が透明なヘルメット?で
(ちなみにキカイダーは機械脳である)
脳みそが白日の下に晒されているアンチヒーローで、
今視るとちょっとどうなんだろう、このキャラ?
と思わないでもないが、それはさておき
なぜだかキカイダーよりも記憶に深く刻まれている。
また、『まことちゃん』で一世風靡した
あの楳図かずお先生の漫画のなかでは、
これ、と言われたら、迷わず『洗礼』を挙げてしまう。
友達にかりて一気に読んでしまったのが懐かしい。
美貌で売ってきた若草いずみという往年の大女優は
子供のころから“美醜”や“老い”に対し過敏で
ゆえに職業病というべく、
あるときからその顔の皺や醜い痣に悩まされ
精神的に追い込まれ、若さと美貌をとりもどそうと
主治医にアドバイスを求めた結果、
なんと女児を産んでその娘に脳を移植をするという
恐ろしい計画を企てる。
そこからの展開もまたすごいのだが、ここでは割愛する。
まさにホラー漫画の傑作なのだが、
同時に、人間のダークな心理をうまくついており、
美醜に対する年齢的な恐怖は
なにも特別な感情ではなく、
だれの心内にも潜む一般心理として認識すれば
それを漫画化するあたり、楳図先生の感性に
心躍らずしていられないのである。
その『洗礼』のなかで、脳の移植があり、実際にそういう場面も描写され
この脳みそ丸出しのグロ劇画に、
ひとしれず興奮したのをはっきり覚えている。
要するに、自分はホラー恐怖症であり
グロに対する微妙な嗜好もちながら
関心だけは人一倍あり、
物質としての“脳みそフェチ”
というやつのおかげで好奇心だけは旺盛で
食わず嫌いをしなくて済んでいる。
さすがにサルの脳みそまでは食指が動かないが、
白子やクルミをみていて、脳みそを想像して
にやりとしまうこともあるぐらいだからなあ。
さて、そんな事は全て前置きで、
脳みそというものには
並々ならぬ興味を抱いているだけの話だが、
それはあくまで、脳が作り出した
偶然の戯れに他ならないといえなくもない。
はじめに言葉ありき
いま、空前絶後の脳科学ブーム?とやらで、
お茶の間にもずいぶん浸透しているかもしれない。
脳科学者といえば、
医学者の権威であり、解剖学者の養老孟司氏をはじめ、
苫米地英人氏、中野信子女史、茂木健一郎氏と言った
凄腕の科学者たちが、お茶の間を賑わしている昨今だが、
それぞれの話は、それぞれに面白く、
なるほどなあと思うことが多々あって、
非常に勉強になる。
自分はそこまで熱心な脳科学信者ではないけれど、
しくみとしての脳科学というものには
目から鱗ならぬ、脳から髄液とでもいうのか、
感心することが多いのも事実だ。
非常に面白い学問だとも思う。
そのなかで、自分が納得するものを
自分でも実践していこうという、
ポジティブな思考ぐらいは、
たえずもっている人間だとは思っている。
だからといって、
彼ら専門家たちの話の単なる請負や小難しい話を
知ったかぶって展開しようとするつもりはない。
アファーメーションという概念が
とても心にひっかかっているので
それを強く意識しているぐらいだ。
つまり、“言霊”というのか
言葉の力を信じているからに他ならず、
すなわち自己評価を高めるための、
自己対話、自己暗示といいかえてもいいし、
それによって脳が勝手に
自己実現の思いの方向へと導いてくれる、
という概念のことをいっているつもりだ。
カネがほしい、有名になりたい、
美しくありたい、強くありたい、
きれいなおねえちゃんと知り合いになりたいetc。
なんでもいいのだけれど、
それらは単に願望であり、
欲望を言葉にしたにすぎないのだけれど、
かといって、だまっていても実現するものでもない。
だから、脳みそにそれらをいかに現実として
刷り込んでいくか、
それによっていかに行動へと移し替えていくか
ということだと解釈している。
要するに、いかに脳をその気にさせるかであり、
その意味での“臨場感”というものをたかめてゆく、
たしか誰かがそんなことをいっていた気がする。
自分としては“言霊”といってしまえば
すんなり理解できることなのだが、
要するに、初めにことばありき、
それをもっともシンプルかつ
親しみやすい考えとしていつも念頭においている。
そのなかで、ポジティブ思考やら
自己評価の肯定感、エフィカシーを高めるだとか、
いろんな脳科学的用語がはいってきて、
最終的には、自己実現のための道具としての言葉
そのためのハードが脳というものだと考えているにすぎない。
まあ、どう理知的に言葉を書き連ねても
所詮言葉は言葉だ。
でも、確実に自分の個性(魂)を宿し
道具であり武器であるがゆえに、
決しておろそかにはできないものであり
それらをいかに価値あるものに意味づけしたり
価値観を肯定できるものと出会っていけるか、
ということを意識している。
自分としては、『ハカイダー』や『洗礼』
クルミなどに惹かれる理由を
わざわざ脳みそというものの物質性から
つまりはオブジェ的な側面を持ち出して語ってみたが
それは脳により強く印象づけるための口実にすぎず
すべては人間が視覚的要素というものに影響を受け
脳にまで大きく影響するからであり、
また、言葉のもつ力を
より引き出すためのフリとして扱ったにすぎない。
だから、自分はまず、
言葉と視覚をある種の共犯関係としてとらえ、
そこにこうして書くという直接的なアウトプットによって
より確かな記憶への刷り込みを行っているのである。
こうした考えはおそらく脳科学的見地からも
すこぶる有効な手段ではないかと理解している。
My Brain · Mose Allison
ジャズ界のフォークナーと呼ばれた、アメリカのジャズ・ピアニストモーズ・アリソンの結果的に遺作となった2010年リリースの「The Way of the World 」というアルバムの一曲目「My Brain」という曲は、まさに脳味噌のことを歌った歌だ。モーズが83歳の時だ。歳をとって衰えて行く自分の脳について、飄々と、スゥインギーなピアノを弾きながら手短に歌うこの軽妙な歌を聴いていると、脳は退化するというよりも、いらないもをどんどんすっ飛ばして、ただ単に身軽になって行くんじゃないのかな、なんて思う。
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