水木しげるのこと

水木しげる 1922 - 2015
水木しげる 1922 - 2015

アミニズム、妖怪道をゆく

この数ヶ月、ワクチンを打つ打たないをめぐって、
国をあげ、またしても狂想曲が奏でられるなか、
その善し悪しは、とりあえずべつとして、だれにも先がわからないとされる
人類史上はじめてのメッセンジャーRNAタイプである治験中のものを
われもわれもと、すすんで体内にとりこむというのは、いかがなものなのだろうか?
少なくとも、あらゆる可能性について、国が十分に検証し、
そのことを、最初に国民にはっきりと提示したうえで
個人がおのおの判断する分はいいが、
少し、先走り気味の人類の傲慢さが、いささか気になってしまう。

そういえば、豊作や疫病などを予言し、
治癒させることさえできるという妖怪アマビエなら、
この現象をなんとみるのだろうか?
一度、訊いてみたいところである。

妖怪といえば、妖怪ウォッチに代表されるとおり、
どちらかとえいば、ゆるキャラの延長にでもあるかのごとく、
軽くとらえられている気がしないでもない、
所詮その程度の扱いである。
元は日本で伝承において、語られるべき、
人間の想像を超えた、いわば超常現象の類いであり、
今日的なワードでいうならば、ずばりスピリチュアルな存在である。

こうした妖怪というものに、親しみをもっていられるのは
やっぱり、漫画『ゲゲゲの鬼太郎』のおかげだと思う。
(自分がTVで見ていたのは第二シリーズであった)。
子供の頃から親しんできたこのキャラクターの偉大さは
世間の認知を強調するまでもなく、もはや普遍性を帯びてさえいる。
その意味で、その道の第一人者である水木しげるの功績は、
実に大きいものがある。

妖怪をひとつの文化として、大衆におし広めた人物であると同時に
水木しげるの最大の功績はというと、
そのまま文献に埋もれたものから、出典不詳の妖怪にいたるまでを
その想像力によって、自ら陽の目を当て育んできたたことである。
かの鬼太郎ファミリーで知られる「子泣き爺」にせよ「砂かけ婆」にせよ
伝承のみで、民俗学的立場では存在することに疑問視されている存在に、
命を吹き込んでしまった、いわば妖怪界の神、そのものであるといえる。

妖怪舎から、限定の妖怪フィギュアが発売されていて、
みているとこれがなんだか、妙に気を惹く。
有名なところでは、一反木綿とか小豆あらい。
こういう妖怪たちは、まったく人に危害を加えないから、
別にいてもさしつかえがない。
むろん、中にはちょっと“困ったちゃん”、と思うようなのもいる。
なにせ、百鬼夜行の妖怪たちである。
が、よくよく考えれば、空想の世界とはいえ、
由来なんかに耳を貸せば、なるほどなと納得する妖怪がたくさんいる。

さて、この妖怪を可愛い存在だと見れば、
愛おしさはどこまでもつのるばかりだが、
可愛いだけでは、妖怪の本質からはずれる。
個人的には、やはり、“恐可愛い”という気持ちがあり
畏怖のような感覚がつきまとうのは偽らざる気持ちである。
だからこそ、惹きつけられるのだと思う。
これは日本人としての奥なるアイデンティティなのかもしれない。

いうなれば、妖怪とはある種、神の分身であり
だからこそ、当然スピリチュアルにも通ずる存在として、
そこから、いろいろな見識を読み取りたいとも思うのである。
つまりは、あらゆる存在の意義に、繊細に目を配り
人類は、この自然と共生する存在だという原理に
素直に立ち返ることになるからである。

記憶をひもといて、子供の頃に戻ってみよう。
ゲゲゲの鬼太郎アニメ第2作第38話「隠れ里の死神」の中に、
隠れ座頭という妖怪が出てくるのだが、
村から子供たちがさらわれていなくなる、ということがあって、
それはもう何百年も続いておきている、という。
いわゆる、時を支配して現実から離れた一種の桃源郷があり
さらわれた子供たちは、同じ時間軸の上で、
当時のさらわれたときから、一秒足りとも動かない世界で
無邪気に遊んでいるのである。
そこへ、子供たちを連れてくるのが死神のしわざで、
鬼太郎はその死神を追って、隠れ座頭のいる桃源郷に乗り込んで、
悪としての存在、この隠れ座頭を、首尾良く退治してしまうのだが
単純な話なら、そこでめでたしめでたしでいいが、
実はこの話しにはオチがあって、
桃源郷という時間の止まった世界を支配していた隠れ座頭を、
なまじやっつけてしまったがゆえに、
一気に現実の時間の波が押し寄せて、ゆえ逃げまどう子供たちが、
その現実に抗うことが出来ずに一瞬にして白骨化してしまうのである。
まるで、マイナス三十度の荒野におったち、立ち小便するようなもの・・・

こうしてみると、果たして、鬼太郎は正義を成したといえるのだろうか。
隠れ座頭は、本当に悪の化身だったのだろうか。
子供ながらに、この哲学的なテーマの前に頭を悩ませたのはいうまでもない。
当時はまったく理解に及ばなかった。
が、今なら、ある程度理解が及ぶのである。
つまり、物事は、単に善悪だけでは片付かないものだということだ。
いいことをしたと思っても、
他者たるものは、必ずしもこちらの算段に同調するわけでもないのだ。
そういった勧善懲悪の世界で片付くのは、
やはり単なる思い込みなのではないかと。

だからといって、悪なるものを無関心にのさばらせておく、
というのも違うような気がするし、
そもそも悪の概念、定義が、非常に難しい世の中になっている。
だからこそ、日頃から頭を悩ませながらも、
モノや場所に宿っている霊性のようなものを、
どこかで尊ぶ気持ちだけは持っていようと考えるのかもしれない。
いわばアミニズム、という考えがある。
もちろん、妖怪に出会ったときに、運良く仲良くなって、
それこそお茶ぐらいご一緒させてもらって、
妖怪の世界ならではのウンチクに耳を傾けてみたい、
などという、実にのんきな夢想やこころのゆとりぐらいは
いくつになっても失いたくないのであるが。

ゲゲゲの鬼太郎OP&ED

鬼太郎が暴く製薬会社の闇

究極薬品を発明したら製薬会社の存在意義はなくなってしまう。第二期ゲゲゲの鬼太郎第21話「心配屋」の裏テーマがそれ。つまり、綺麗事をいったところで儲からない薬に意味はなく、所詮ビジネスであるという皮肉をこめた内容が、いまから50年前ののアニメにもかかわらず、今日的テーマをすでにアニメの中に盛り込まれていることの驚きを禁じ得ませんね。さすがは水木先生でございます。結局、一番怖いのは妖怪ではなく、人間だということなんだな。人間の心の闇を妖怪になぞらえているだけ。そんなアニメだからこそ、今なお色褪せず、絶大な人気を誇っているのでしょう。

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