ヴェールを脱ぐ女、その抗戦のイリュミナシオン
フランス、ヌーヴェル・ヴァーグの重鎮
エリック・ロメールへの日本での評価として
恋愛映画の巨匠なんて言われ方をしているのを見ると
ちょっぴり違和感がある。
確かに、シチュエーションとしては
恋愛の場に重きを置くのが定番で
間違いないところではあるのだが、
どう見ても一筋縄では行かない恋愛映画を
しかもちょっと変わった視点から描く作家で
それをこともなく、さりげなく
まるでドキュメンタリーでも見ているかのように
軽やかなタッチに仕上げる括弧付きの監督、
というのであれば素直に合点はいく。
まあ、そんな難しいことはさておき、
ロメールの映画は一見すると
なんてことはない、議論ばかりの映画である。
おしゃべり好きのためにある映画と言っていい。
わざわざ「喜劇と格言劇集」と銘打っているぐらいだから
必然的にそうなるのだろう。
とりわけ、若い女の子たちが
恋愛について、あるいは人生哲学のようなもので
あーでもない、こうでもないと論争するのがお決まりだ。
登場人物たちが自己主張することで
ぶつかったり、ぶつからなかったりするが
それが日常の一コマであり、
何も特別な状況下ではない、
というのがロメール作品の骨子である。
その行為そのものは我々日本人社会には
何かと馴染みの薄い文化、とも言える。
その割には我が国では概ね受けはいい。
特に女性からの支持が圧倒的なのが面白い。
沈んでゆく太陽が放つ緑の光線が幸運をもたらすという
ジュール・ヴェルヌの話をもとに
揺れ動く一人の若い女の子の心理に被せて
構成されている『緑の光線』は男性が見る以上に、
女性が見る方がより理解できうる話なのではないだろうか?
(これはもう他のロメール作品にも言える)
主人公の女性デルフィーヌは
友達との約束でドタキャンされ自分自身のバカンスの計画が狂ってしまい
新たに誘われたバカンスでもうまく馴染めない。
そこから日常の彼女自身の性格、こだわりが邪魔をして
なかなか一緒に楽しめる相手が見つからない。
そんなジレンマ、葛藤だけで映画が出来上がってしまう。
まさに、ロメール映画の真骨頂である。
そして教訓好きなロメール候からすると
気難しい女、素直じゃない女に幸が訪れるのは
“緑の光線”を拝むよりも難しい、
ってなことになるのかもしれないのだが
そうした性格が悪いだの、いいだのというような
説教じみたものとも無縁な所に
ロメールのロメールたる魅力がある。
バカンスの習慣に馴染みがなくって
そこから始まる物語に戸惑うかもしれないが、
一人の若い女の子が、そう簡単に
誰でも構わず身も心もオープンになれないのは
ある意味、日本的な感性からすれば理解できるし、
むしろ、終始ロマンチックなおとぎ話のようなものを求めて
彼女がぐずって拗ねているなどと解釈する方が、
映画の味方としては堅物でおめでたき人物として
蔑視されかねない、そんな哲学的な内容である。
個人的かつ男の視点からして
「女なんて誰でもいい」とは決して思わないし
「何も皆身体目当て」というわけでもないのだが
この手の女性は、そういう見方をしてしまう性格なのだ。
だから、インスタントな恋にはなかなか発展しにくいし
場にいればいたで空気が重たくなってしまう。
要するに“面倒くさい”女である。
ただそれだけのことである。
それでも、当人からすれば
「私だって楽しみたい」わけだし
「彼だって欲しい」に決まっている。
そこを他人に単純に決めつけてかかって欲しくないという
微妙な女心をロメールは見事に映画にしてしまう。
自分の中のへ理屈が幅を利かすタイプの女性だからこそ
『緑の光線』のファンタジーがより威力を発揮するのだ。
いつも損な役まわりばかりの感でいっぱいで
頑張ってるけど報われない感が強かったり
元から孤独を前提で強く生きていこうと覚悟しているよう女には
降って湧いた外的素因にこそに救いがあったりするのかもしれない。
つまりは、プライドや自分の中のアンビバレンツな感情への
言い訳が立つシチュエーションこそ
最大のドラマを感じるのではないだろか?
そんな女性心理に精通したロメールの映画が
恋愛の映画と勘違いされるのはしょうがないとしても
見終わった後に、感情移入できるような、
そんな仕掛けをところどころ絶妙に散りばめながら
巨匠然として評価され続けるロメールが
実のところは、率直に男から見れば
ただ女の子大好きなヘンタイチックな老監督だった
などという結論で締めくくってしまいたくもなる。
ロメールという人は特異なのだ。
とはいえ、ロメール映画は面白い。
人はそこにフランス人固有の気質を見出すかもしれない。
何より偉大なシネアストだ。
『カイエ・デュ・シネマ』創刊時より寄稿し、
のちには編集長をも務めた人物でもある。
日本でこの手のものをうまく撮れる監督の名前など
全くと言って浮かんでこないのだから、
相当ハードルの高い映画だと言えるのだと思う。
こんな監督はなかなかいない。
さて、これは『緑の光線』への格言として
ロメールが引用したランボーの『イリュミナシオン』からの
「Chanson de la plus haute Tour(邦題:最も高い塔の歌)」の一節であるが
詩というものの翻訳が難しいのは百も承知の上で
訳者において、こうも違うとなると
翻訳の重要性を軽視できない。
あゝ! 心といふ心の陶酔する時の来らんことを!
中原中也訳ああ 時よ来いみんなの心と心が寄り添うかの時よ
宇佐美斉訳ああ!時よ、来い、人の心の酔う時よ!
粟津則雄訳ああ、心がただ一すじに打ち込める
そんな時代は、ふたたび来ないものか?
金子光晴訳
要するに人の心理や感じ方、物事の見方にだって
人の数だけ違いがあるのだから、
それをあたかもかくかくしかじかだと断定して
他者の解釈を受け入れないのにはいささか無理がある。
各々が好きに解釈すればいいことだ。
個人的には金子光晴の訳が一番ピントくるのだが
映画同様に、感性の問題だから
そこは良し悪しの問題ではない。
『緑の光線』の主人公デルフィーヌに関しては
彼女のような感性を見ていると
自分も若い時には、多分に頑なで、頭でっかちで
物事全般に対しては、
どこか斜に構えたところがあったのを思い出しては
笑いを噛みしめることになるのだ。
そんな意味からも、『緑の光線』は
ちょっとひねくれた青春映画と言えなくもないのである。
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