臨死の守りかメメントモリか、賢者の凝視はかく語りき
何年か前のことだった。
高齢の母親の入院の際、
我が家族は、病院からのヒアリングとして、
何かあった時に、延命治療を施すかいなかの誓約を求められ、
しばらく考えたのだが、その際には、
ジタバタせずに寿命だとして、特別な延命治療を望まないと
残されたものは決定した。
植物人間になってまでも、高齢の患者を生かし
それでも 人間の尊厳が保たれるのかどうか・・・
当人に確認するすべはない。
もちろん、そんなところまで踏み込んで結論を下したわけではないが、
いざという時には、覚悟を決める方が、よほど自然な気がしている。
もちろん、命は尊い。
延命の道を選んだとて、他人がとやかくいう問題ではないのかもしれない。
それぞれの立場、ケースで見解は変わってくるだろう。
けれども、病院や医師の立場では、
そうしたことは、今の時代、曖昧にすることができないのは
当然のこととして、我々は受け止めなければならない。
1967年に、精神異常犯罪者矯正施設という、
社会における闇に切り込んで、カメラを持ち込み、
それゆえに長年に渡って一般上映が禁止されていたほどの問題作
『チチカット・フォーリーズ』以来、
かれこれ、数多くの社会的な視座を持った作品を
地道に撮り続けてきたドキュメンタリーの巨匠
フレデリック・ワイズマンによる『臨死』は、
そうした人間の尊厳とは何か、ということをひたすら冷徹に
カメラを通して、我々現代人に投げかけてくる。
ボストンのベス・イスラエル病院、
ICU(集中治療室)での患者とその家族
それに対処する医師と看護婦たちの死をめぐるドキュメンタリーである。
観る方も観る方だが
撮る方も撮る方で、
通訳もこれまた大変な仕事だったであろう、
そのワイズマンの中でもとびきりの長尺
6時間に及ぶ傑作ドキュメンタリーの一つに挙げられるだろう。
何十年も前にも一度観ていたのだが、
内容が内容だけに、話の流れをきちんと理解していたわけでもなく、
どうもあいまいでよく思い出せないということもあり、
再度記憶に刻み付けようと、再度この冒険を試みたのである。
いやあ、やはり凄い。
やはり、ワイズマンは常人ではない。
何が凄いのか。
目の前に、生と死の境界線にたたずむ臨死患者達、
すなわち、意志があるかないかさえ曖昧な
臨死者と呼ばれる人間がいて
反対に意志をもった家族と医師や看護婦たちといった
それをとりまく人間関係が刻印されてはいるが
世間で良く聞かされるような
お花畑がでてくるようなファンタジーではないし
いわばスピリチュアル映画というものでもない。
あくまでもいつものワイズマンの視線であり
あのワイズマン以上でも以下でもない、
ひたすら観察に徹した6時間、
“賢者”としての凝視がそこにある。
あたかも、透明人間としてのワイズマンがそこにて、
キャメラのジョン・デイビーがその指示のもと
静かにカメラをまわし続けていることを
微塵も感じさせない。
そこに映り込んだ情景を持ち帰り
約一年近くの年月をかけ編集作業を繰り返しながら
この完成へと導く行為がどれほど大変なことか、
ということもさることながら、目の前にさらされた
まったく赤の他人の生と死の境界線に横たわる
臨死体たちの運命を見届けることの奇異さ。
これはワイズマン映画を見終わった時に
ほぼいつも決まって襲われる感慨といっていい。
すなわち、これを自分はどう解釈すべきなのか?
まさに、砂漠の真ん中にポツリ佇む自己を発見して
はて、どちらの方向へ向かって進んでいくべきかを
問われているような、そんな感慨に晒されるのだ。
しかし、ワイズマンの映画以外に
そんな苦悩の現場をのぞきみるような場に
直面することなどあるはずもない。
だからこそ“貴重”なのでもない。
その映像に映り込んだ、
いわばワイズマンがよしとしたOKテイクの意味を
自分なりに考えていくうちに
死というものが、ひょっとすると人間の手の内にあり、
呼吸器(チューブ)を外す外さないという行為ひとつで
延命したり、終結できたりする、
いかようにもなる、というようなものだという錯覚さえ
呼び覚ましてしまうそんな思いに畏怖さえ感じる。
脳死というものは医学の限界の前に
無防備に晒される人類共通への命題である。
すなわち、生きることへの意味から
人は目をそらすことを許されないのだ。
呼吸器をつけると患者は苦しむのだが
かといって、呼吸器を外すことが最善策とは言い難い。
今度は自分で息ができなくなれば自ずと心臓は停止する。
すなわちこれこそ正真正銘、死の宣告だ。
そこにワイズマンはものごとの善し悪しを問うような
野暮な真似は決して持ち込まない。
そんなヒーローものスタイルとは無縁なのだ。
ある患者は、植物人間としての延命はごめん被ると自ら考える。
ある患者は、それ以前に意思疎通すら確認できない。
大事な人がかぎりなく死に面した状態で、
今度は家族としての思い、医師としての立場が問われ始める。
だから、『臨死』は臨死者をめぐるドキュメンタリーでありながら、
その家族や医師たちをむしろ主役として捉え始める。
とはいえこの場合、患者の家族の言葉を借りるなら
『ただ祈るしかない』のである。
医師は患者を死から生還させる名目より
その落とし所を巡って、その場しのぎの苦しい選択を強いられる。
しかし、祈りの対象は医師や病院側へではなく
あくまでも神への祈りであろう。
非常にパーソナルかつ非科学的なものである。
現実的な意味において、
ほぼ蘇生不可能な状態においては
その唯一の希望が神への祈りぐらいしかないのである。
かくして、病院や医学は神ではないことが
そこに紛れもなく映し出されているのだ。
そのジレンマ、葛藤を孕んだ映像の強度。
ワイズマンの映画には物語性を極力排除した形で
こうした現実のみが投げ出される。
では、我々は自分の身に置き換えた時、
果たして、どう考えるべきななのか?
臨死者は、その家族はいったいどうしたいのか?
生きたいのか、生かしたいのか。
それすらもわからない混乱というものを
ひたすらカメラに冷徹に提示されるだけだが、
まさにそこに注がれる賢者たる凝視は
生死の守りに直面した人間を見届けながらも
メメント・モリ「自分が必ず死ぬことを忘れるな」
という警句さえも忘れてしまっているかのような
我々への戒めとして、
人間の尊厳が持ちうる矛盾さえをも
暴き出してしまうように思えるのだ。
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