君みたいにステキな女優がどうして泣いているの?
映画を見だしたころに
どう転んだかゴダールの『勝手にしやがれ』に出会ってしまい、
いきなりガツンとやられてしまったのだった。
映画のイロハも、人生のなんたるかも理解していない、
青二才、孤独で生意気な思春期真っ盛りのときだっただけに
なおのこと、素直に心に深く刺さったのかもしれない。
これこそオレが求めている世界だ!
なんて小躍りして、口笛を吹いて、
アホのように単純さの中に熱狂していた日々。
あの衝撃は、今でもわすれてはいない。
だが、そのとき受けたショックは、
いわゆる映画的な意味でのショックなんかではなかったのだ。
のちに、ゴダール自身がこの『勝手にしやがれ』で
映画史そのものを破壊した革命児とまでいわれていたことを理解するまで、
映画に特別な鑑賞法があるだなんて想いもしなかった。
このとき、あくまでも個人的、主観的な動機からしか
何事も判断できなかっただけなのだ。
なにがショックで、何が映画史的な革命だったのか?
と、今なら少しは回想できるとは思う。
まず、初めて見た当時のぼくには、
映画の文法ではなく“雰囲気”そのものにやられたわけだ。
それはいわばファッションみたいなものだ。
おそらく、風邪のようなものだ。
いままでこういう感性のもの自体に触れる事なんてなかったのだ。
いわばヌーヴェル・ヴァーグの洗礼というやつを浴びた。
なによりまず、ニューヨーク・トリビューンの売り子で、
セシルカットで一世風靡した短髪のアメリカ人の留学生のパトリシア、
このジーン・セバーグという女優がとってもキュートに思えた。
ゴダールといえば、実際にミューズになったのはアンナ・カリーナの方だが、
自分はどちらかといえば、当時このジーン・セバークの方が好みだった。
今でもロングよりショートカットの女の子の方に惹かれるのは
おそらくジーンへの思い入れからの呪縛が解けていないからかもしれない。
スエディッシュの血を引くジーンは、
あたかも北欧の静けさ、冷たさ、
何よりもミステリアスなムードと知的な雰囲気を宿し、
単純明朗なアメリカ娘には到底思えなかった。
どこか憂いがあるというか・・・
ジーンといえば、さほど出演作品もないが
この『勝手にしやがれ』のパトリシアだけで十分魅力的だった。
のちに、あんな悲惨な最期を迎えた女優だったなんて、
全く想像もつかなかった。
なぜ彼女はピンクパンサーみたいな組織に入って
FBIなんぞに狙われなきゃならなかったのか?
映画の中では、グラサンかけた才女よろしく
あのメルヴィル相手に堂々インタビューをするような、
そんな君みたいにステキな女の子が、
あんな悲劇のヒロインにならなきゃならぬのか?
それは映画以上に衝撃的事実だったのだ。
そんなことを考えているうちに、世の中は彼女を忘れ去ってゆく。
この無念さは、晴れるばかりかより深刻さを増してゆく。
のちにフィリップ・ガレルによる『孤高』で
その真実を知らされ、深く考えさせられることになる。
元は右側の人間が左寄りになり、というのも、
彼女が結婚した相手というのが
ドゴール将軍の副官ロマン・ギャリ氏であり、
このブルジョア生活の歪みが
究極的左翼運動へと向かわせたという話があった。
にしても、電気ショック療法を受けねばならぬほどに
苦しんだ晩年の彼女に、
僕が夢見た、あのパトリシアの面影は全くなかったのだ。
なんとも、悲しい現実であった。
なんとも寂しい女である。
僕は、それからもなんどもこの『勝手にしやがれ』に立ち戻って
自分を慰めるように、彼女の魅力を目に焼き付けたものだった・・・
しかし、そんな残酷な運命が待ち構えているとは思えず、
この映画史を塗り替える革命的作品に酔いしれたのは、
青二才たる自分には幸いだった。
この初期衝動こそは全ての道標でさえあった。
一方で、ミッシェル・ポワカールこと、
ジャン=ポール・ベルモンドのチンピラっぷりもかっこ良かった。
自分もいつか『勝手にしやがれ』の舞台、
パリ=フランスなんぞにいって、あんな生活をしてみよう、
などと真剣に思ったりしたものだ。
つまり、パトリシアのような女の子と出会って、
ねんごろになれるかもしれない、
明日なき人生を、そんなデタラメさをふらつきながら
一途さにかけてみたい、そんな若気の至りを
勝手に夢想して目を輝かせていたのである。
それが青春なのだ。
まさに阿呆である。
青二才である。
そんなアホで単純なことを考えたのは自分のせいではなく、
全てこの映画のせいだと思い込んでいた。
が、まあミッシェルのようなチンピラになる勇気も度胸も資質も
何一つ持ち合わせていないくせに、
頭のなかでヌーヴェル・ヴァーグをバイブルのように、
あたかも念仏のように信仰していただけで、
あんな風にかっこよくなれるわけがなかったんだよ。
もっとも映画の最後に、惚れた女に裏切られるベルモントが、
警官にうたれよたよた走り出し
道路に倒れて“dégueulasse(デギュラス!)”、
つまり「最低だ!」とつぶやくはめになるのだが・・・
それもそれで我がことのように受け止めている“バカなオレ”がいた。
とはいえ、ジャン=ポール・ベルモンドのかっこよさといったって、
ひとりの男の子の生き方としては、なんの役にも立ちはしないものだった。
所詮作り物だ。
それでも、一抹の光というか、こういうのって母性本能をくすぐるんだな、
こういう風にしてやれば自分も女の子にもてるかもしれないぞ、
というような勝手な思い込みがあった。
そんなわけで、ぼくにとっては当時、
この『勝手にしやがれ』の空気感こそが、思春期の錯覚そのものであり、
もてるための必須のアイテムだと信じ込んでいたわけで、
文学を読みふけり、映画館の闇にだかれ、
レコードを小脇にかかえ、そしてワイルドに生きる、
やたら小難しいことをいって女の子にちやほやされる、
などと考えていた痛い思い出がここにつまっているのだ。
今思うと笑ってしまうぐらいくだらない脳みそだった。
まあ、そんなくだらないことはどうでもいいか。
この『勝手にしやがれ』が真に革命的であったのは、
まず、シナリオがないこと。
ろくなプロットなしで作られた映画であるという点だ。
それはロッセリーニの『イタリア旅行』を下敷きにしたといわれているが、
自動車とピストル、そこに男と女さえいれば映画ができるという
それまでの映画そのものの概念を根底から覆すものだった。
そして、ラウル・クタールの手持ちカメラによる
ドキュメントタッチや即興演出などが、
映画=作られるものから映画=起こるもの、という概念にかえてしまった。
いまでこそ、そういうスタイルの映画が珍しくはないのだが、
こういう型破りな方法論の究極が、当時どれほど物議を醸し出したか、
どれほどショッキングであったか、
たとえば、映画の根底を支える職人たちにしてみれば
そんなことがまかり通れば、
自分たちの居場所さえ失われてしまうことを意味したりもするわけだ。
要するに大いなる敵だったんだろうな。
そんな風にして、映画そのものを根底から覆した
ゴダールの処女長編作品が『勝手にしやがれ』であった。
この紛れも無い事実が、映画史に与えた影響とやらを、
青二才風に叫ぶつもりは無い。
まあ、当時のぼくは、そんな時代背景や、
映画とはなんぞやなんてことにはまったく関心がなかった。
むしろ、こういう映画こそは
自分の乾きを癒すもののだとは思っていたが、
あくまでワンオブゼムでしかなかった。
だからヌーヴェル・ヴァーグを通し、
様々な映画体験が始まっていくのだが
あれほどまでに難解な映画を撮ったといわれるJLGでさえ、
今見るとさほど難解というわけでもない。
むしろ、「おしゃれなフランス映画」にさえなっているほど
世に流通しているJLGをすんなり受け入れてしまっている。
ぼくとしては、その政治性よりは、
文学的資質とグラフィカルなセンスと
音響に対する感性こそを支持してきたのだが、
そういうものは、いまみても素晴らしいし、
やはり未だ刺激的な感性であるのはいわずもがなである。
いずれにせよ、ソニマージュ、
つまり音と映像を実践したといわれるゴダールであるが
そこに文学、引用、詩といった言語を総称して
「ポエジー」という名の劇薬をたして
詩=映像=音響という三位一体のアート表現を
ぼく自身に吹き込んでくれたのがJLGだった。
その結果、野良猫同然の青二才が勝手に仕上がっていったのである。
そんなこんなで、ついつい饒舌になってしまうのだが、
この映画体験における興奮だけが救いでもある。
けれども、あのパトリシアが、
アイコニックなモード女優としてしか語られない現実に
複雑な思いがして胸が痛むのである。
目の前で、実際に自殺しかねないほど、追い込まれていた彼女を収めた
フィリップ・ガレルによる『孤高』にしても、
精神病棟に収容される役を演じるロベール・ロッセン『LILITH』にしても、
およそ、『勝手にしやがれ』のパトリシアを連想しようもない、
ジーンの末路を予言しているかのように残酷な印象しか与えない。
まさに精神の危機状態の一人の女優の姿が刻印されており、
そんな映画をもう一度みてみたい、みてみよう、
などと容易に呟くことが、どれほどの痛みを伴うことになるか?
やはり、あのパトリシア幻想は青二才固有の妄想だったのかもしれない。
セシルカットブルース:小島麻由美
ゴダールの映画に甘い恋の気分を期待してもしょうがない。そんなときはこの小島麻由美の「セシルカットブルース」で甘くだるいガーリーブルースでお口直しを。子供ぽっく少女のような無邪気さと、大人のようま官能を滲ませる不思議な歌を聞かせる小島麻由美。昭和歌謡でもジャズでもない、まさに小島麻由美という才能が炸裂するセルフプロデュース作『さよならセシル』から。
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