モランディに魅せられて

変相を拒否する変奏の美学

イタリアはボローニャ出身の画家
ジョルジョ・モランディの絵画に惹かれたのは、
全くの偶然であった。
たまたま入ったギャラリーで見た
同じくイタリア人の写真家のルイッジ・ギッリの写した
フォンダッツァ通りにあるモランディのアトリエの写真からだった。
静謐で、朴訥ながら気負いの感じられない美しさにあふれ、
実際のモランディの絵を眺めていると、
あたかもコンストラクティッド・フォト(構成的写真)を
想起させるような写真にも感じられ、
なるほど、ごく自然な合致に納得するのではあるが
仮にも「20世紀最高の画家」とも謳われ
多くの写真家がそのアトリエの情景を被写体に選んだという
その理由が知りたいととみに思った。

そこには何か奇抜なものがあるわけでもなく、
瓶やじょうご、水差し、壷といった器物を中心とした
ナトゥーラモルタ(イタリア語で静物画という意味)を
平面に並べて描くというコンポジションが主で
目を惹く仕掛けのようなものはただの一枚もない。
なのに「20世紀最高の画家」と言われる由縁はなんだろう?
そういう思いからどんどんとモランディの絵に魅せられていく。
確かになにかが心にひっかかってくる絵なのだ。
果たしてそれがなんなのか?
正直なところ、明確な答えを導き出す自信は今を以っても全くない。
まるで禅問答のような押し引きがあるだけだ。

キュビズムでもない
未来派、というのでもない。
無論シュプレマティスムや構成主義というものでもない。
ある種のミニマルアートと呼べるかもしれないが
当人も否定していたように、
モンドリアンのような抽象性とは明らかにベクトルは違っている。
でも、それは決して現代美術のような
晦渋さがあるわけでもない。
むしろ素朴で純朴すぎる絵であるがゆえに厄介である。

ただなんとなく、
自分が勝手に思い込んでいるイメージのなかで
モランディという人は絵を描く事で
生涯なにかをさぐっていたのではないか、
つまりは求道者というか、研究者というのか、
そういったたぐいの問答を画布の上で
繰り返し行なっていたという気配が漂っているのだ。
つまり、同一の瓶や箱、壺、水差しなどを繰り返し描き
そこからずらしたり、配置を変えたりしながら
空間や配置、密度といったものを色々思案を重ね
ああでもない、こうでもないと
何かを再構築しようとしていた気配がある、
ということなのである。
この華やかな絵画が跋扈する20世紀以降の画壇においては
むしろそのスタイルは特殊にさえ思える。

モランディの絵を見てわかるように
あまりに孤高というか、禁欲的だ。
生涯生まれたこのボローニャから出ることもなく、
教壇を取りながら、独身を貫き、
ただひたすらにそうした美学に没頭した画家であるのもうなづける。
友人である美術史家・美術評論家ロベルト・ロンギへの手紙の中でも
幾度となく「窮乏」を嘆いているように
それら物資的困難が生み出した究極の美学とでもいうのだろうか?

少なくとも、モランディ自身は
新しい芸術運動に関心を持っていたと言われている。
同時代のキュビズムやキリコの「形而上絵画」など
未来派にも影響を受けたといわれているにもかかわらず、
ヴァローリ・プラスティチ(秩序への回帰)を地でいくように
実際にみる絵は非常にクラシカルなたたずまいで
むしろ源泉はロココ時代のジャン・シメオン・シャルダンや
ポール・セザンヌの方に近く
この二人からの影響を色濃く反映させているのだ。
それでも、全然古くさい感じがしないところが魅力になっている。
地味で代わり映えしないモティーフに反して
透明で豊穣なる絵画の躍動を体現しうる
不思議な魅力を持った画家なのである。

Prickly Pear · Portico Quartet

イタリアのグループかと思いきや、イギリスはロンドンから生まれたインストゥルメンタルネオジャズバンドのポルティコ・カルテット。ミニマル、アンビエント、スピリチュアルと、クラシカルな響きのなかに、モダンでクールな旋律がさわやかにかけめぐる。あのジャイル・ピーターソン推しのアルバムだった2007年のデビュー盤「Knee Deep in the North Sea 」からの「Prickly Pear」は、涼しげなハンドパンの音色とパステルトーンのサックスのコンビネーションで、音のナトゥーラモルタを奏でる印象的なナンバーだ。

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