増村保造『「女の小箱」より、夫が見た』をめぐって
この作品は増村VS若尾ラインの中でも 最もその傾向が顕著な内容が描き出されている。 愛に生きる女が、ついには男にまで強要してまでも 意思を貫き、周りをも顧みない激しい生き様を晒す作品である。 テーマは終始ブレることはないのだ。
この作品は増村VS若尾ラインの中でも 最もその傾向が顕著な内容が描き出されている。 愛に生きる女が、ついには男にまで強要してまでも 意思を貫き、周りをも顧みない激しい生き様を晒す作品である。 テーマは終始ブレることはないのだ。
砂に溺れて 文学の映画化は失敗に終わるものなどと、往往にして言われるところであるのだが、中には、文学を凌ぐ作品もあるのだから、ひとえに否定はすることはできない。そもそもが人々を言語で魅了した世界をなんとか視覚化したい欲望...
まず『ラストタンゴ・イン・パリ』の強烈なインパクトを、 どうにもこうにも抗えない悪夢のように、 多感な映画的感性の神経の溝をじっとりと湿らせ、 あるいはヒリヒリとした後味でもって刺激されたことを、 いまなお手に取るように覚えている身としては、 こいつをまず肴に、御題目を唱えないわけにはいかない。
そんなわけで、春たけなわの今、 個人の趣味的範疇において、エロティシズム漂う映画について考察してみよう、 そんな欲望がにょきっと頭をもたげている。 それは必ずしも、直接的でない表現かもしれないし 言葉に依存したエロというものかもしれない。 単に個人的なエロスの観点がさらされるだけだが ひとついえることは、それらが滲ませるエロティシズムは とても興味深いのものだということだ。 人間の生の営みのなかに存在する官能性を喚起するものである
『愛のコリーダ』ほど純粋に、愛の映画だと言い切れる映画に出会うことは、 そうそうあるものじゃないと思う。 そこは声を大にしていっておきたい。 それほどの衝撃があった。
坂本龍一の音楽は実に幅広い。 そのアルバムの中では、最も支持するのは 『B-2UNIT』当たりの空気感を 個人的には今尚敏感に想起しているのであるが、 その音のエッジたるや、到底病気を経た、 ある種覚悟を決めたリアルサカモトからは 程遠いような先鋭的な音で構成されている。 まさに教授たる名の全盛期の実験的、冒険的、野心的なサウンドに こちらも若き日の興奮が今も呼び起こされてはくる。
そんな未来を予言する、プロフィット5の達人を、 この地味なサウンドメイカーを、静かに讃えたいと思う。 それにしても、それぞれメンバーのミュージシャンとしての成長ぶりは ジャパン時代とは比べものにならない進化をとげているのだが ジャパン時代から、ほぼなにもかわることのない姿勢で地道に作り上げてきた このバルビエリの世界観こそは、ジャパンカラーを もっとも大事に継承しているような気がしてなんだか、安心するのである。
デヴィッドの実弟として、ジャパン時代は 常に、一歩も二歩も引いた形で、縁の下の力持ちとしての域を出なかったが ドラマーとしての腕、ミュージシャンとしての進化には驚くべきものがあった。 もはや、ジャパン時代ですら、遠い昔のことのようになってしまったが、 最近では、エグジット・ノースという新たなバンド活動の場を見出し 独自の美学を追求し続けている。 あいかわらず、日本のミュージシャンたちとの交流も活発で 未だ絶大なるリスペクト、人気を誇る玄人好みのドラマーである。
さて、ジャパン時代には、あくまでもアート嗜好の強い 美意識にこだわりのあるミュージシャン といった域に過ぎなかったデヴィッドが ヴィジュアルアートを強く推し進め始めたのは、 解散後からだといっていい。 ソロファースト『Brilliant Trees』のリリースあたりで まず、一冊の写真集『Perspective』を発表する。 これは主に、身内の人間やレコーディング時に関係した 仲間内を撮影したポラロイドを合成して 一枚の絵に仕上げると言うもので、 言うまでもなくデヴィッド・ホックニーの亜流である。
ポップミュージックの垣根を超えて 実験的、先鋭的なジャンルで孤高の活動を続ける デヴィッド・シルヴィアンと言う音楽家のことを書き始めると まずはその音楽家としての側面、 あるいは歌詞やコンセプトに置ける宗教的、思想家的側面 そしてアートヴィジュアル的側面、といった分野で それぞれ丸々一冊の膨大な本になってしまうほど 実に示唆に富んだアーティストであることに 今更ながら驚きを禁じ得ない。
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