オーソン・ウェルズ『黒い罠』をめぐって
冒頭、映画史を紐解いても、これ以上ないというほどの 実に蠱惑的なロングショットで幕を開ける、 オーソン・ウエルズの『黒い罠』は、掛け値無しで傑作だと思う。 だが、単なる傑作として終わらないのがオーソン・ウエルズの オーソン・ウエルズたる所以である。
冒頭、映画史を紐解いても、これ以上ないというほどの 実に蠱惑的なロングショットで幕を開ける、 オーソン・ウエルズの『黒い罠』は、掛け値無しで傑作だと思う。 だが、単なる傑作として終わらないのがオーソン・ウエルズの オーソン・ウエルズたる所以である。
かくして、ブコウスキー文学の不思議な清々しさ、 胸のすくような猥雑なざわめきが、 この『つめたく冷えた月』にも程よく溶け出しており、 どこか憎みきれない二人の中年男の哀愁の サイテーながらも、サイコーの幻影とともに酔いしれ そんな弛緩した瞬間に、ふと心地よさを覚えたりするのを 自覚するのである。
それにしても、いくら実際の体験から生まれているとはいえ、 ポランスキーのこうした強迫観念めいた演出は 実に恐ろしく、見事に引き込まれてしまう。 それは『反撥』『ローズマリーの赤ちゃん』にも十二分に発揮されていたが 『テナント』ではそれを見事に当人が演じることで よりリアルで逼迫した空気が張り詰めている。
最近とんと噂のないヴィンセント・ギャロのことを 朴訥に考えていた。 処女作『バファロー66』は三度観た。 はじめて観たとき、そのオフビートな笑いのセンスに ぼくは思わずニタニタしてしまった。 ギャロという男のなんともいえない哀愁と茶目っ気に 心を掴まれたからだった。
けれども、この映画のテーマは 実を言うと正義などと言う安っぽい、 と言うと語弊があるけれど、 そんな大義名分はさておき、 孤高に生きていてきた退役軍人としての心の傷、 人生の痛みや重みが 人種も年代も違う人間への真の友情として描かれ 奮い立って自身の天寿を全うしたこの老アメリカンの生き様に、 心打たれるのであった。
そこで、今回は、映画作りにおいて 監督兼俳優、ひとりでとりしきる孤高の映画作家を特集してみようと思う。 ひとよんで二刀流映画術。 むろん、映画など、とうていひとりでできるものではないし、 監督と俳優を兼ねるから、出来のいい映画が出来るわけでもない。 それがウリになるほど甘いものではないのだが、 うまくいけば、すべてその二刀流作家の勲章になり こければ、すべての責任が覆い被さってくる。 まさに自己責任である。
かくして、勝新の贅の極みが尽くされた『新座頭市物語 折れた杖』は 傑作、かどうかは別にして、 マニアにはたまらない作風となって語りつがれている。 こんな作り手も現れないだろうし、またそれを許す配給会社もないこの時勢、 実に、貴重で、実に勝新らしい一本として、 ファンならずとも、ひとりでも多くの映画ファンに知って欲しい作品である。
レメディオス・バロ、この蠱惑的な響き・・・ 通常の美術史では、なかなか聴こえてはこないだろう。 この興奮が少数派内でしか共有できないことが残念なのだが、 とりあえず、フィニ、キャリントンときて、 この才女レメディオス・バロをとばすわけにはまりますまい。
マン・レイのミューズ、20世紀を代表する女性写真家として知られる、 マダム・マン・レイこと、リー・ミラーについて書くにあたって、 まずは写真家として知られる彼女をめぐって いったいどの写真がリーというアーティストへ 手向けるにふさわしいかを考えてみることから始めよう。
単にダダのことを書きたいと考えていたのだが、 そのなかで、ベルリン・ダダのメンバーとして活動した ハンナ・ヘッヒというコラージュ作家 女ダダイストのことを年頭にあってのことだ。 コラージュ、それは夢とポエジーのアマルガム それをコラージュと呼ぶにやぶさかではない。