渥美マリのこと
そんな渥美マリだが、とりわけ増村保造による二本、 『しびれくらげ』『でんきくらげ』は、映画として 悪くはない作品として輝きを保っている。 渥美マリを主演として、堂々とパンチの効いた作品を残しているのは、 紛れもなく、増村によるところの力が大きい。 間違っても、単なるお色気映画ではないし、 男に食い物にされるだけのかよわい女像には程遠く、 他の増村作品同様の強い女を演じている。
そんな渥美マリだが、とりわけ増村保造による二本、 『しびれくらげ』『でんきくらげ』は、映画として 悪くはない作品として輝きを保っている。 渥美マリを主演として、堂々とパンチの効いた作品を残しているのは、 紛れもなく、増村によるところの力が大きい。 間違っても、単なるお色気映画ではないし、 男に食い物にされるだけのかよわい女像には程遠く、 他の増村作品同様の強い女を演じている。
その『LIGHTNING IN A BOTTLE』をまたDVDで鑑賞していたところだ。 ちょうどブルーズ生誕100年 「イヤー・オブ・ザ・ブルース」の催しの1つとして撮影された本作は あの『ラスト・ワルツ』でおなじみの 製作総指揮マーティン・スコセッシのよる音楽ドキュメンタリー。 ラジオシティ・ミュージックホールにどれほど歴史があるのか、 また、このイベントすべての収益が、 若きミュージシャンたちの育成のためにブルース基金として使われた、というようなことも、 この映画を通じて知ったことだった。
そういえば、先日8月5日は スイスの映画監督ダニエル・シュミットの命日だった。 すっかり忘れていたので、ここで後追いで書いておこう。 今からもう16年も前のことである。 時が経つのも早いわけだ。 死因が咽頭ガンだったために声がつぶれてしまい 痛々しい姿の晩年だったのを覚えている。 とはいえ、シュミットの映画は いつだってすこぶる雄弁で優雅な夢物語として心にある。
アミニズム、妖怪道をゆく この数ヶ月、ワクチンを打つ打たないをめぐって、国をあげ、またしても狂想曲が奏でられるなか、その善し悪しは、とりあえずべつとして、だれにも先がわからないとされる人類史上はじめてのメッセンジャーRN...
そんな気の滅入る空気に支配されないための素敵な出来事を おのおのが見出し楽しむしかないのである。 そのことを、お題目として唱えるだけである。 戦後76年目の夏。 せっかくゼロからここまで来たのだ。 あともどりするやつらはこの際ほっておこう。 いつだって、まっさらな心をとりもどして、 希望ある未来へ、歩みだしてゆこう。 それが生きる意味、人生なのだ。
僕は観た、この『二十四時間の情事』をすべて観た。 何年にもわたり、くりかえしくりかえし観てきた。 いや、結局のところ、僕は何も見ていないのを実感するばかりである。 そう、この『二十四時間の情事』、この映画ですら、 何も見てはいないのだという事実に絶望する。 だが、唯一、そこに男と女の出会いがある。 ただ一日だけ、それを忘れて愛し合う二人がいる。
夏という季節は、恋の季節だとかなんだかんだ、 かんたんに片付けるが、人間を勘違いさせる空気に満ち満ちた、 罠がはりめぐらされた季節だともいえる。 そんな真夏に、サバービアのプール付きの家をめぐって、 世にも不思議な、というか、ちょっと恐ろしいような 勘違い男の非情の物語が提示されてゆく映画がある。 1968年のフランク・ペリーによる『泳ぐひと』の話である。
ウキクサ、その響き通りの水中の浮遊植物は 俳句では、夏の季語として知られるように、 春にぷっかりと現れ、秋にはさらりと消え、 その後水底でもごもごと越冬するといわれている。 昔から、浮草稼業とはよくいったもので、 よりどころなく、一つの場所に落ち着かない職業にたとえられるが、 そんなタイトルの映画がある。 小津安二郎、1959年の『浮草』である。
唐突にツァイ・ミンリャンの『西瓜』を観る。 観たくなったのだ。 この作品について、なんと言えばいいのか。 まさに、上手く説明出来る映画ではないのだが、 AV男優をめぐるラブストーリー、 (全然知らないが、日本人のAV女優も出演している) といってしまえばラクなのではあるが、 そんな簡単なシロモノではなく、やはり難解ではある。
そんな幸福な夏に、 アニエス・ヴァルダのことをふと考え そして彼女の作品がみたくなる瞬間が襲ってくる。 それは、彼女の作品にある一定の季節感が伴っているからだといえるのだが、 1965年のその名も『幸福』などは、 まさにまばゆい夏の光線に満ちた映画として 脳裏に焼き付いている作品である。