あぶらだこに魅せられて
あぶらだこ、あぶらだこ。 あたかも、アブラカタブラのごとく、 周期的に呪文を唱える自分がいるのだ。 あぶらだこ、あぶらだこ。 わたしを自由にしておくれ。 あぶらだこ、あぶらだこ。 ぼくを元気にしておくれ。 思わずそう叫びたくなるような、精神の不安定なときには、 ただあぶらだこにすがるのみである。
あぶらだこ、あぶらだこ。 あたかも、アブラカタブラのごとく、 周期的に呪文を唱える自分がいるのだ。 あぶらだこ、あぶらだこ。 わたしを自由にしておくれ。 あぶらだこ、あぶらだこ。 ぼくを元気にしておくれ。 思わずそう叫びたくなるような、精神の不安定なときには、 ただあぶらだこにすがるのみである。
今日の音楽シーンにおいても、 ミニマル的な構築ってもんが かなり顕著にコアになってたりしてますからねえ。 えっ、いきなり音楽の話題じゃまずいっすか? 熱燗も、まさにあの量、あの形状、あの風情あってのもの。 そういうの、ミニマル嗜好といってもいいんじゃないんすか。 お銚子ものには、ちょうどいいってな具合すよ。 あれもこれもっていう欲張りは ちっとも粋ってもんを生みだしませんから。
そんな中で、ひときわ個性的、 というかワンアンドオンリーなギタリストの話をしよう。 その名もビル・フリーゼル。 僕はこのギタリストがあらゆるギター弾きの中で もっとも好きなプレーヤーとして 今尚敬愛し続ける現役の音楽家だ。
ぼくは、ホルガーのソロから入って、カンを聴くようになった口で カンの偉大さそのものも理解しているが、 なんといっても、「Persian Love」を聴いて この音の錬金術に魅了されてしまったホルガーファンであった。 そして、そのホルガーの右腕でもあったエンジニアのコニー・プランクとともに 当時、もっともリスペクトしていたミュージシャンの一人であった。
『ラスト・ワルツ』には良き時代のアメリカンミュージックと ザ・バンドの集大成が、宝石にようにつまっているのだが、 やはり、ザ・バンドは五人揃ってこそのバンドなんだ ってことを再確認するのである。
実際に、人気絶頂時に白血病という 重病に苛まれたクリスを看護するために 彼女はバンド解散の道を選ぶような情動を持った人だ。 そんなデビーのカッコいい姉御っぷりを本能的に嗅ぎ分けて 親しみを感じていたんだと思う。
ただ一つだけ、触手が動くことだけを言うと 曲の良さとコーラスワークが 自分の中ではビートルズ嗜好の入り口であり、 いまだ、ずっとひっかかっているということだ。 その関係を音楽的に語ろう、というのでもない。 ただ、そのハーモニーを聞いているだけで ワクワクさせられるということが書きたいだけである。 それらは一括りになって魅力を構成しているように思う。
だが、自分はここへ夜景を見に行ったわけではない。 別の意味の観光に、足を運んだのである。 そう『細野観光』である。 あの音楽王、細野晴臣の「デビュー50周年企画」 と銘打った展覧会を観に来たのである。
シガツバッキャロースプリングフィールド 四月一日と書いて「わたぬき」と読む。実際にこんな苗字の人がいるんだから日本語ってなんだか難しいのも頷ける。「四月一日に綿入れの着物から綿を抜くから」なんて言われてもそうですか、と口...
春というのは、何も陽気でうららかな日ばかりでもなくって 時に不安定、時に、アンニュイ、そして気まぐれなもの。 まさに狂気を秘めた光を彩なすそんな季節でもあります。 そうした春の一面を飾るに相応しい10枚のセレクトを さらにまた続・続編として書いてみよう。