寺山修司『田園に死す』をめぐって
田園の真ん中で、 少年時代の自分と今の自分が向き合って将棋を指している。 なんともシュールな光景である。 寺山修司の自伝的映画『田園に死す』の ここからがいよいよクライマックスシーンである。 これほど現実離れした光景があるものだろうか? まさに夢か幻想としか言いようのない世界である。 ところが、なぜだかグッと迫りくるものがある。 なぜだろう?
田園の真ん中で、 少年時代の自分と今の自分が向き合って将棋を指している。 なんともシュールな光景である。 寺山修司の自伝的映画『田園に死す』の ここからがいよいよクライマックスシーンである。 これほど現実離れした光景があるものだろうか? まさに夢か幻想としか言いようのない世界である。 ところが、なぜだかグッと迫りくるものがある。 なぜだろう?
詩というものが、 なにものにも支配されず、 いわゆる言葉の連なりや叙情からも解放され、 完全なる自由を勝ち取ると同時に 一人の人間の生き様の中に、 脈々として流れ、宿るものだということを 身を以て教えてくれたのがランボーだった。 彼は詩を捨てたのではなく、 砂漠の商人として、新たな詩を新たに生き始めたのだ。
「前衛(アヴァンギャルド)」というキーワードから 満を持して引っ張り出してきた『アンダルシアの犬』について、 今から約1世紀近くも前のこのあられもない映画を見たあなたは、 居ても立っても居られず、その感想をグダグダの解説でもって おっ始めようというところじゃないだろうか? しかし、そんな事をしたところで、 おそらく何にも伝わりはしませんよ。 むしろ、誤解を招くだけですから、悪いことは言いません、 そこは素直に、悪夢を見た、とでも言って流しておきなさい。 言ってみれば、結論はそういうことでしかないのである。
名ばかり、形ばかりの政府の元に 巧みに飼いならされた国民が、 この不穏な日々を強いられていることに どこまで自覚があるのだろうか? そんな犬畜生にもおとるこの境遇を、 このまま無自覚で生き続けるなどということがあっていいものか? そんな、生きる屍にはなりたくはない! 目覚めよ自我よ! もし、この人が生きてたらそう叫ぶだろうか?
それにしても、浅野忠信と言う俳優は いつも不思議なオーラを放っている。 『ねじ式』のツベ(言うまでもない、つげ義春の分身) と言う男はその不思議な存在感 そして個性の可能性をどこまでも冷静に押し出してくる。 このシュールで不条理な作品が 浅野忠信という俳優が出演しているだけで、 なぜこれほどまでに安心感ある絵になってしまうのか?
さすが、チェコという国は かつてカフカを産出しただけあって この手の不条理ナンセンスに長けた作家を多数輩出している。 そのチェコを代表するヤン・シュヴァンクマイエルは 美術家というべきか 映画作家というべきか、 はたまたアニメーターというべきか 何れにしてもシュルレアリスティックな作風で 狂気とユーモアとカオスを併せ持つ独自の世界感で 我々をたちまち魅了する錬金術師である。
ただし、一言で片付けるなら、なんじゃこりゃ? 理解しようとする思いがことごとく粉砕される。 次第にその狂騒劇のようなばかばかしい魅力に悪酔いしまうだけなのだ。 圧倒的なまでのエネルギー。 物語を追う意味はない。 いや、どうにもこうにも追いきれんのだ。 このはちゃめちゃぶりを素直に受け止めるべし。 恐るべしやロシア帝国。 いや、おそるべしはゲルマンか。 カンヌでの上映の際には ことごとく観客を離脱させてしまったものの、 あのスコセッシが「何が何だかわからないが、すごいパワーだ」といったとか。
そんな女たちの生き様が哀しくも、たくましく 滲み出る生活臭ととも描き出される話だ。 途中に挿入される字幕。 そして監修にも名を連ねる滝田ゆうのイラストが これまた絶品なまでの風合いを帯び、郷愁を誘う。 これで、ラストがまた、たまらなく切ない。 「夜霧のブルース」を聞いていると 思わず彼女たちを抱きしめてやりたくなる。 記録に手を貸してやりたい気さえしてくる。 そう、そんな赤線なら、 ついふらっと通いたくなってくる自分がいるのだ。
実際の伯父さんよりも ぼくには身近につながっている“伯父さん”がもう一人いる。 長身でソフトハットにパイプを咥え チェスターコートから蝶ネクタイがのぞかせ 寸たらずのズボンを履いてこうもり傘を手に持って 自転車に乗っている、というのが ジャック・タチの代名詞である 「ぼくの伯父さん」ことユロ氏である。
人類滅亡後の未来から過去へのタイムトラベルをし その原因をさぐるために男は記憶をたどり あるひとりの女と出会う。 それは幼少のころの記憶なのか? それは再会なのか? それとも「時」の終焉なのか?