映画・俳優

ELLE ポール・バーホーベン2016映画・俳優

イザベル・ユペールスタイル『エル』の場合

それにしても、奔放すぎる、 ちょっと変という声も理解できないわけではない。 ミシェルのような女性の行動を理解するのは簡単ではない。 また仮にこうした女性がいたとしても、 日常を生きてゆくのは別の意味で 大変なことなんじゃないかと思わせるほど、 常識からかけ離れてはいる。 まさに最強の鉄の女像がここにある。

映画・俳優

ジュリエッタ・マシーナスタイル『カビリアの夜』の場合

バカな子ほど可愛いと言うが、 それは女にも当てはまる。そんな話をしよう。 所持金欲しさに、のっけから恋人だと思い込んでいた男に裏切られ、 いきなり川に突き落とされる散々なカビリアが 子供達に助けてもらった恩すらも返さず、 とにかくどうして自分はこんなに不幸なのかとプンスカプン。 その人生を目一杯呪いながら、 親友や神や聖母にまで悪態をつく始末。 言うなれば哀れな女であり、 このイタイ女の物語がこのフェリーニの『カビリアの夜』の骨子である。

『十九歳の地図』1979 柳町光男文学・作家・本

中上健次『十九歳の地図』をめぐって

一方、それは柳町光男によって映画化されているが こちらのほうは原作のもつ青年のやるせなさ、 虚無感がうまく描かれているように思う。 主人公の本間雄二もいいけれど、 蟹江敬三が実にいい味をだしていた。 「かさぶたのマリア」が泣けてくる。 ダイレクトシネマのような手持ちカメラが、 中上文学のエッセンスをつかんでいると思う。 きれいに収まりきった澄まし顔の映像よりもすがすがしかった。

SteppenWolf 1974 Fred haines文学・作家・本

フレッド・ヘインズ『荒野の狼』をめぐって

『荒野の狼』は現代文明に対する皮肉であり、 その洞察力はハリー・ハラーを通じてこの物語を支配し、 他の作品以上に、色濃く反映されているように思われる。 だが、フレッド・ヘインズのよるこの映画化は、 単に文学からの映画化というのでもなく、 また、精神的世界を映像化すると言ったものではなく 実験的でありながらも、どこかユーモアや諧謔精神のようなものをうまく取り込んで、 ヘッセの世界観をうまく抽出した映像化に成功している。

Sans toit ni loi 1985 Agnes Varda映画・俳優

アニエス・ヴァルダ『冬の旅』をめぐって

アニエス・ヴァルダの『冬の旅』 (原題は「屋根もなく、法もなく」で、 最初の邦題も、いつしか『さすらう女』へと変更されている。) そうした現実を決して美化することなく ひどく厳しい現実をさらけ出す。 旅とさすらいを同じ目線で語って良いものか? そうした矛盾が暴きだされはするが、その主張はあまりに無情である。 18歳の少女が、そのさすらいの果てに命尽きる映画である。 女路上生活者として生きた数日間、 出会うさまざまな人間を通し回想しながら 彼女の人間像に触れようとする。

Paris,Texas 1984映画・俳優

ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』をめぐって

それにしても、今は映画の重要なタームの一つにさえなってしまった 「ロードムービー」という言葉を、もっとも強く意識した映画が 思い返せば、この『パリ,テキサス』からだったような気がしている。 それはたんに地図上の、どこそこからどこそこへ といった空間移動のみならず、 魂の移動,彷徨という意味をふくんでいたのは間違いない。

田園に死す 1974 寺山修司映画・俳優

寺山修司『田園に死す』をめぐって

田園の真ん中で、 少年時代の自分と今の自分が向き合って将棋を指している。 なんともシュールな光景である。 寺山修司の自伝的映画『田園に死す』の ここからがいよいよクライマックスシーンである。 これほど現実離れした光景があるものだろうか? まさに夢か幻想としか言いようのない世界である。 ところが、なぜだかグッと迫りくるものがある。 なぜだろう?

Endless Poetry 2016 アレハンドロ・ホドロフスキー映画・俳優

ホドロフスキー『エンドレス・ポエトリー』をめぐって

詩というものが、 なにものにも支配されず、 いわゆる言葉の連なりや叙情からも解放され、 完全なる自由を勝ち取ると同時に 一人の人間の生き様の中に、 脈々として流れ、宿るものだということを 身を以て教えてくれたのがランボーだった。 彼は詩を捨てたのではなく、 砂漠の商人として、新たな詩を新たに生き始めたのだ。

Un Chien Andalou 1928 Luis Buñuel et Salvador Dalíアート・デザイン・写真

サルバドール・ダリ&ルイス・ブニュエル『アンダルシアの犬』をめぐって

「前衛(アヴァンギャルド)」というキーワードから 満を持して引っ張り出してきた『アンダルシアの犬』について、 今から約1世紀近くも前のこのあられもない映画を見たあなたは、 居ても立っても居られず、その感想をグダグダの解説でもって おっ始めようというところじゃないだろうか? しかし、そんな事をしたところで、 おそらく何にも伝わりはしませんよ。 むしろ、誤解を招くだけですから、悪いことは言いません、 そこは素直に、悪夢を見た、とでも言って流しておきなさい。 言ってみれば、結論はそういうことでしかないのである。

エロス+虐殺 1970 吉田喜重映画・俳優

吉田喜重『エロス+虐殺』をめぐって

名ばかり、形ばかりの政府の元に 巧みに飼いならされた国民が、 この不穏な日々を強いられていることに どこまで自覚があるのだろうか? そんな犬畜生にもおとるこの境遇を、 このまま無自覚で生き続けるなどということがあっていいものか? そんな、生きる屍にはなりたくはない! 目覚めよ自我よ! もし、この人が生きてたらそう叫ぶだろうか?