中平康『狂った果実』をめぐって

狂った果実 1956 中平康
狂った果実 1956 中平康

太陽族VSモータボート特攻隊

太陽はまぶしい。
いつだって絶対的なまでの輝きがある。
何より夏の灼熱の太陽相手に歯向かうバカなどいまい。
だが、体制や社会になら反抗する輩はいつの時代にもいるものだ。
それが文化を作り、時代を担う。
ここにその代表として、
“太陽族”なんて言葉を唐突にもちだしたところで、
果たして今の時代にはさほど響くとは思わない。
書いている自分ですら、ピンとこないままに
太陽族の看板を遅ればせながら引っ張り出している。
生きてきた時代がまったくかぶってないのだから当然である。

その象徴というか、現象を巻き起こした張本人である
あの石原慎太郎が、かつて都知事として
その辣腕をふるっていたころでさえ、
随分とむかしのような気がするし、
それもあの太陽族の人だ、なんてことは思った試しもない。
そもそもが、あの傲岸不遜な感じにはなじめなかった。
あえてその輝かしい経歴の文芸活動についても
さほど興味をもったともいえないのは、
それが時代に根を下ろした、若者たちの無軌道な衝動を
その作品たちが大手を振って掲げていたからだろう。
それは実際の渦中でなければ体感し得ないものだったと思う。

その当時の風俗を反映し、芥川賞をも受賞し
華々しく脚光を浴びたあの『太陽の季節』によって
生まれ出たこの“太陽族”なるものの概要はこうだ。
とりわけ夏の太陽が注がれる海辺にたむろし、
サングラスやアロハに身を包み、
性にアモラルで享楽的な生活を送る若者たちのこと、である。
何にも増して自由こそがモラル
モラルの中心にはびこる自由な意志というものが
いかなるものよりも優先されるのだ。
健全であったかなかったか、
どこまで社会に浸透し、受け入れられていたのか、
そんなことは二の次でいい。

これが社会現象として取り沙汰されたのは
かれこれ半世紀以上も前のこと。
ちょっと古びた感じがするのはしょうがない。
もちろん、それがいかほどのものだったかは
ある程度、後付けで理解できるわけだが
それでも、他の作家や文化を押しのけてまで
わざわざ掘り起こすほどには気のりしなかったのである。
しかし、不思議にも映画版『狂った果実』を見たときに
ちょっとだけ、時代を共有できた感がしたものである。
何かギラギラしたものによって心掴まれるものがあった。

それは監督中平康の力といっていいかもしれない。
市川崑と双璧のモダンでスタイリッシュな映画作家だが、
いまいちその扱いはぞんざいで、
どちらかというと過小評価の感の否めない作家である。
しかし、この『狂った果実』がなににもまして
世界の映画作家たちを狂気させた問題作であることは
やはり、時代が変わっても事実として受け止めねばならないのだと思う。
いや、時代が大きく変わった今だからこそ、
見るべきものを改めてここに見出すことが可能なのではないだろうか。

1959年のトリュフォー『 大人は分かってくれない』
1960年ゴダールの 『勝手にしやがれ』
あるいはシャブロルの『いとこ同志』といった
フランスで起きたヌーヴェルヴァーグの先駆けとして、
この『狂った果実』が彼らに新しい息吹を吹き込んだのである。
この衝動がもたらした映画としての魅力はなんなのか?
海、ヨット、車、そしてジャズ。
そして、偉大なる太陽の下で、
無軌道な若者ゆえの爆発的なエネルギーの発露が
ここでは存分にあぶり出されているからだが、
とはいえ、時代の空気の中で
個がいかにして自己主張し、幅を利かせながら
本能を解放して生きてゆくべきか、という若者固有の立場を
男と女、そして肉親といった関係性から独立した三角関係の中で
この映画は生々しく描ききっているからなのだと思う。

主演は慎太郎の弟、裕次郎が兄夏久を、
そしてその弟春次には津川雅彦が
それぞれこの本作がデビュー作となった。
(ちなみに津川雅彦のデビューは子役時代を含めればこれが最初ではない。
澤村マサヒコ名義で数本の出演をすでに果たしており、
この二年前には溝口の『山椒大夫」で幼少の厨子王を演じている)
その兄弟が一人の女を巡って
太陽のようにギラギラした本能をぶつけ合う。
実際の話でいうと、兄慎太郎がここでの春次タイプ、
よって夏久は当時の裕次郎をそのままモデルにしたような
キャラクターとして描かれている。
(無論、温度差はあるのだが)
その二人に挟まった恵梨という女が
この兄弟の運命を引き裂いてしまう魔性の女というわけである。
この魔性の人妻こそはのちの裕次郎夫人、北原三枝が演じている。
決して嬌態を取らず、
恋愛というものに自由であろうとする女性像は
しおらしさや貞操観念に縛られないクールビューティーに相応しい。
要するに、兄である慎太郎が、裕次郎を世に送り出す
猛烈な後押しがあって成立した作品というわけである。
かくして「嵐を呼ぶ男」は「太陽の季節」に
この太陽族としての世に放たれた一つの創造物だったのである。

一方で、その一途な若さを爆発させる純情で真面目な青年春次を
あの津川雅彦がみずみずしいまでに、遺憾無く発揮している。
これまた慎太郎の目に適った原石というわけだ。
それが衝撃のラストシーンへと一気に突き進む。

この映画が公開された当時、
フランスではまずトリュフォーが絶賛したと言われている。
シャブロルの『いとこ同志』に至っては三角関係という設定も似通っており、
文字通り、強い影響が見られる。
また、ポランスキーの処女作『水の中のナイフ』では
ヨットという同一空間での三角関係をもろに扱っており、
真相は知らないまでも、なにがしかの影響を読み取るにやぶさかではない。
そんな風にして、いち早く、ヨーロッパ
とりわけヌーベルヴァーグの映画作家たちが
この日本からの熱波を受け取った作品として、
また、若者たちのエネルギッシュな反抗文化の萌芽を感じ取る作品として、
時代を超えて今一度胸に刻んでおきたい映画である。

The Who – My Generation

太陽族にはモッズ。国を違えど、当時の太陽族もイギリスのモッズたちも思いはそう変わらない。ロックのスタンダードナンバーでありTHE WHOの代表曲でもある「My Generation」はピート・タウンゼントがモーズ・アリソンの「ヤングマン・ブルース」に影響されて書いた曲だという。大人や社会への反抗心、刹那の快楽主義。エネルギーのやり場探しに彼らは情熱を捧げるのだ。そう思うと、今の時代は少しおとなしいような気がする。ギラギラしたものはない。憂鬱で、覇気がない。そう思うのは歳をとった人間の勝手な理屈か。でも、音楽や映画には刻印されている。その情熱が熱いほどに。さあ、みんな自分の世代の話をしよう! その気持ちは当事者にしかわからないのだ。

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