どっと押し寄せる水玉娘の感慨。ラブフォエバー
「ラブ・フォーエバー(愛はとこしえ)」と何度、私は心に叫んできたであろう。『時』が迫り来ることは人間のならいである。その集結に平和を望んで、一層「愛はとこしえ」と叫ばずにはいられない。
KUSAMATRIXカタログ MORI ART MUSEUMより
今更、説明は不要かもしれない。
それほど、一般大衆に受け入れられて久しい前衛の女王
この草間彌生というアーティストについて語る前に、
一時、中国で草間彌生の贋作が出回り
世間をにぎわしていたが、現在はどうなんだろうか?
もっとも、世間はそれどころではない事情が山盛りで、
そんな話はスルーだろうか。
なにはともあれ、世の中も随分変わったものだ。
それは草間彌生が、どういう経緯で
今日の喝采を勝ち取ったかなどには全く無関心で、
ただ単にカネになる、という理由だけで、
そのような愚行を重ねているのだからあきれるばかりで、
草間ファンならずとも、美術を愛するものとしても心外な話である。
そうした輩の存在は、逆に言えば、ここまで時流にのって
世界を席巻するほどのアートを創造する草間ブランドを、
より強固なものにしている、という穿った見方もできなくはない。
不気味なカボチャのドットオブジェが、
こんなにも支持される時代が来るなどと、誰が想像し得ただろうか?
なにしろ、少女時代の幻視体験から
脅迫概念だの自己消滅だのといった聞き捨てならないテーマで
人生そのものを戦い抜いて来た、
この不世出のアーティストの長い道のりを考えれば
これはこれでひとつの勲章なのかもしれない。
そもそも、ピカソやゴッホ、モナリザの贋作など、
どれぐらい市場にでまわっていることだろうか・・・
とはいえ、その画風をいくらまねたところで
到底このアーティストの崇高なる魂に近づくなど
誰にも出来ないことである。
あの茫漠たるエネルギーを前に
誰が太刀打ちできうるというのか。
今更いうことでもないが、
その歴史にこそ、今一度スポットライトを当て
もっと賞賛されていいアーティストだと思う。
長野の田舎の裕福な家庭にうまれ
もともと絵が好きな少女であったが
スキゾフレニア、つまりは統合失調症を病み、
幻覚や幻聴から逃れるために、
ドットによって画布を埋める事で、
自己消滅の危機を回避してきたのである。
いうなれば、カタルシスとしてのゲイジュツだ。
皮肉にも彼女が真の国際的アーティストになったのは
ニューヨークに渡ってからであり、
ハプニングの女王、前衛の女王とまでよばれたのが半世紀も前のことで、
オノ・ヨーコとともに、いわば、前衛芸術の草分け的存在なのだ。
男根だの、水玉だの、カボチャだの、目玉だの
ときには放送コードなど無関係に
自由かつ危険な世界が飛び交う
危ういアーティストであるにもかかわらず、
今日ここまで草間ワールドが席巻するのは
かえすがえすも圧巻であり、
ステキな時代の夜明けである。
かくいう自分が最初に、
この草間弥生というアーティストを知ったのは、
それらアート活動からではなく
『マンハッタン自殺未遂常習犯』や『クリストファー男娼窟』
『ウッドストック陰茎切り』『蟻の精神病院』といった
それこそ、軽々と口には出来ない
危険な世界を描写した文学からであった。
もちろん、その世界は、自ら体験した事実が元になっており、
言ってみれば、あの草間ワールドの文学版にすぎない。
すべてあの強固なオリジナリティに貫かれた
魂の表出に他ならない。
渡米後、彼女の魂の支持者、
恋人でもあったジョゼフ・コーネルの死が
彼女の精神の均衡を不安なものにする。
『マンハッタン自殺未遂常習犯』は
その告白だといっていい。
そんな魂のアーティストが、
世界の支持をバックに、
日本に凱旋してからが真骨頂を迎える。
かつてのような、不安定な危うきものを突き抜け、
より自由に、より快活に
そのエネルギーを放出しはじめることで
負のイメージを払拭したのである。
それは今日の商業ベースにのった草間ワールドをみれば
一目瞭然である。
そんな草間ワールドをみて思うに、
世の中が変わっても、
その表現の源は何も変わらないということである。
見る側の視線が変化しただけである。
そんな深淵なるポップワールドに
便乗しようとしても無駄であると思う。
以下は何年か前、国立新美術館で催された
『草間彌生展 わが永遠の魂』に
足を運んだ際の覚書を併記しておこう。
ラブフォエバー 『草間彌生展 わが永遠の魂』
新国立美術館は、雨だというのに、
傘を片手に人々は行列をなしては、
まさにその前衛芸術に触れんとしていた。
やはり、その人気は只事ではなかった。
晴れていたら、この何倍もの長蛇の列に
紛れなくてはならなかっただろう。
そんな余分な想いはさておき、
いざ入館してみると、
まず飛びこんでくる圧倒的なパワーの絵画群が
ズラリ敷き詰められた空間で、
まるでテーマパークのような、
楽しい雰囲気の作品を前に
群がる人の洪水は圧巻であった。
ここでは、スマホなどの撮影が許されており、
おのおのにぎやかな時空の記念を
スマホのなかに保存しておくことに
夢中になっていた。
色鮮やかな原色で展開される草間ワールドは、
実際は生やさしい代物ではない。
一言でいうならば、
アールブリュットのそれであり、
モチィーフには、例のドットや網を始めとする、
内臓風景であり、神経描写であり、
プリミティブアートのような、顔や人間の造形が、
死や永劫、魂や宇宙や人類愛といった、
大きなテーマを狂気や強迫観念、
叫びなどがごちゃまぜに表現されていた。
それは眩暈のするほど自由であり、
膨大であり、エネルギーに満ち満ちていた。
決して簡単には理解しえない世界観でありながらも、
死に臨む前衛芸術家の魂の純朴さに
人々は心が解放されてゆくのだろう。
それ以外の過去のアーカイブ的な作品群は
おおよそ四十万の大衆に
受け入れられるようなものではない、と思う。
初期からの作品を前に
異物に感じても別段不思議じゃない。
何しろ病的なまでの神経症を芸術に昇華させ、
瀧口修造に見出され、
ヨゼフ・コーネルに愛され、
ニューヨークで美術界を席巻した前衛芸術家は、
死の誘惑と不毛な時代に抗いながら生きてきた。
この瑞々しくも毒毒しい芸術は、
いまこうして大衆の前に歓迎される幸福を勝ち取った、
未来永劫朽ち果てることのない
生命の輝きに満ちていた。
むろん、それは理解や支持などという
単純な言葉ではないかもしれない。
恐らくは圧倒的な絵画のエネルギーに
素直に魔法をかけられて、
草間ワールドに大衆が
幸せなまでに吸収されたにすぎない。
とはいえ、もはやここまでくると、
一つ一つの作品に意味など
どうでもよくなってくる。
自分は、ここで絶対に写真を撮るまいと決めていた。
写真を撮ることに夢中になり、
その作品の魂に触れずに
あたかもイベントや行事を楽しんだに過ぎない、
という風にはしたくなかった。
誰かに自慢したり、吹聴する気もなかった。
本当は、こんな人混みの中では
対峙したくはなかったが、
草間彌生の魂の前では、
もうそんなことはどうでもいいことだった。
彼女のメッセージに込められた、
未来永劫、芸術家の魂が、
果てることなく、人びとに受け継がれてゆく、
愛の波動を体感するというものであるなら、
その想いに、老若男女あまたの人たちが、
たとえメディアの力であったとしても、
こうして実際に駆けつけて
身銭を切ってキャッキャと楽しんでいることは
素晴らしいことだ。
あわよくば芸術というものが、
別段高尚なものなどではなくして、
もっと身近で、純朴な魂の露呈であることが
認知された世になれば、
どんなに素晴らしいだろうか。
それはまた、この芸術家の生の“遺言”でもあるはずだ。
自分は、そのタイトルである、
「永遠の魂」、という響きに反応し、
自分の魂を重ね合わせて生きる喜びを再確認した。
いまから三十年前に出会い、
美術よりもまずその世界観、
とりわけ小説群に啓蒙、刺激を受け、
『我ひとり逝く』や『ピンク・ドッツ 星の墓場で眠りたい』
といった世界観で静かに高揚させられたこの作家に、
その場にいて、その魂に触れるだけで十分なのだ。
自分の魂のあり方を見つめ直すいい機会となった。
自分の居場所はそこでしかない。
もう迷うことはないだろう、
自分らしく、魂の思うがままに生きよう。
魂は永遠なり。
ありがとうやよいちゃん。
ラブフォエバー!
“RADIO” TOWA TEI WITH YUKIHIRO TAKAHASHI & TINA TAMASHIRO
草間彌生の水玉ドッツをフィーチャーしたジャケットの、テイ・トーワ2013年の7thアルバム『LUCKY』から。彌生ちゃん自ら顔を出して始まる「RADIO」は、ユキヒロとモデルの玉城ティナをフィーチャーした弾けるようなご機嫌なテクノチューンのフォーエバーミュージックだ。これが縁で2017年にはNHKのドキュメンタリー番組『草間彌生 わが永遠の魂』の音楽を担当している。
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