スタンリー・キューブリック『時計仕掛けのオレンジ』をめぐって

時計じかけのオレンジ 1971 スタンリー・キューブリック
時計じかけのオレンジ 1971 スタンリー・キューブリック

呪われたアルトラホラーショームービーに未来はあるか?

かつてセックス・ピストルズを率いた
ジョニー・ロットン(現ジョン・ライドン)は
「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」のなかで、
なんども「ノーフューチャー(未来などない)!」と叫んだ。
未来なんてあるものか、そうはいっても
我々は終わらない時空をさまよわざるをえない住人なのだ。

時々ふと頭をかすめるキーワードはズバリ“未来”である。
では、未来を描くとは、どういうことになるのだろう?
予知能力も何も、未来を知ることなんて不可能な人間に
あくまでも予測の域でしかない世界を前にして、
せいぜい小説や映画に委ねるのが関の山。
だが、SF的な世界を駆使すれば未来が展望できるというのは
いささか短絡的だと思う。

AIに取って代わられる世界が実現化されるといわれている。
運転手のいない車、無人の改札、
レジ係はお金を間違える心配はいらなくなる。
利便性のみが追求され、個体はどんどんと場所を無くし、
追われるモノ、そして無用な人々が廃墟をなす社会。
感情は抑制され、全てが権力によって管理される・・・
それはある種の淘汰であり、
洗練あるいは進化としてみなされるかどうかは
意見の分かれるところだ。

たとえば異常気象の末に、未来が砂漠化し
感情を奪われ体温を失った植物のような人間たちが
隣人として未来をかろうじて存続させているとしたら?
そんな光景を誰が想像しうるのだろうか?
それがたとえ待ちかまえる未来の姿だとしても・・・

今から描く未来に、希望があるかないか、
正直僕にはわからない。
すでに、自分がいなくなってしまっている世界を前提に
夢想し想像する時間はない。
せいぜい十数年先のことであり、
あくまでも未来は現実の延長であり、その先はオマケだ。

では、ここでいったん過去に戻ろう。
実際に確かだったものをあてにしよう。
それは決して後退を意味しない。
そうだ、未だ世界が希望に溢れかえっていた時代に帰って、
再び、希望の灯をともそうじゃないか。

例えば、スタンリー・キューブリックのカルトムービー
『時計仕掛けのオレンジ』を想起してみよう。
スクリーンにあふれかえるイメージ、アイコンは、
当時からみればいたく未来的であった。
けれども、今見返すと、どことなくレトロモダン風であり
こだわりのキッチュな世界が支配している。
単に、懐かしい気分がするのだ。

山高帽に貞操ベルト?がついた、あの白いつなぎのコスチュームを纏い
片目だけにつけられたつけまつげにステッキをもつアレックス。
浮浪者たちを容赦無く叩きのめし
「雨に唄えば」を口ずさみながらゲームに興じるようにレイプする。
我が物顔で車を飛ばして、怖いものなど何にもない、
といった有様だ。

見渡せばアレン・ジョーンズによるポップな芸術品が立ち並ぶミルクバーや自室の、
それこそ近未来な家具に囲まれて、
どこまでも近未来風情に揚々たる無法者たちを扇動し
ナッドサットなるうちうちの言語を創造し
自分の王国を築き上げる主人公。
それらを見るだけでノスタルジックな幻想が沸き起こってくる。
若者たちが夢見る世界はかくも歪だ。
当時、公開禁止にまでなったキューブリックワールドが放ったイメージが
後世の若者たちに与えた影響は計り知れないと思う。
そこには暴力とセックスが支配する若者たちの狂乱があるが、
同時に何やらワクワクさせてくれるものがあったのだ。
そう、それこそが未来という名の幻想だったのか・・・

しかし・・・
誰も好き好んで暴力に明け暮れる奴はいない。
そんな社会を望みはしない。
あったとしても、長続きなどしない。
アレックスの家庭は今日の家族内乖離の象徴のようである。
それは十分すぎる家庭環境とは言い難い。
派手な衣装を纏う母親も気の弱い父親も、
世間体ばかりを気にして、息子のことなんて考えちゃいないのだ。
アレックスを育む環境は十分に現代的社会問題を内包する。
昨今、同じような状況が垣間見られるはずだ。
だからと言って殺人にまで昇華する暴力や
犯罪としてのレイプや性衝動は許されざるものであり
だからこそ、法があり、国家がある。

キューブリックは、そこから
この主人公アレックスを、
ルドヴィコ療法なる半ばパワハラを駆使した人格矯正療法でもって
あたかも動物のごとく実験材料に仕立て上げ、
衝動を抑制しようとするのだ。
衝動は、治療されたのではなく、
単に恐怖を埋め込まれ洗脳されただけだ。
挙句には、それを政治的な手腕として利用する。
未来を夢見る若者たちは、こうしてますます狡猾な大人たちの餌食となってゆく。

アレックスはそこで性衝動や暴力への意志を去勢され、
それまでは神のように崇めていたヴェートーベンの音楽によって
とうとう自殺へと追い込まれてしまう。
しかし、そこでキューブリックは簡単に死なせはしない。
アレックスは不死身だ。
国家や社会の傀儡とはならないという意思を見せる。

アレックスは再び、暴力や性の衝動にたけりくるうのだろうか?
アンソニー・バージェスによる原作では
アレックスはやがて家庭という安楽へと回帰し
暴力性からは卒業してしまうことになるのだが、
キューブリックが描いた映画の世界では
そんな短絡的な循環にはなっていない。

そもそも、人間は機械じゃないのだ。
感情の生き物だ。
九死に一生をえたアレックスは半ば洗脳に満ちた療法から解き放たれ
「俺は治ったんだ」と
奪い去られた動物的な本能の数々を蘇らせてゆく。
この行く末に未来があるか否か、誰にもわからない。
この映画を暴力礼賛ととるか、それとも若さの勝利と受け止めるか。
そこが問題なのだ。

さあ、若者たちよ、洗脳などクソ食らえだ。
決して暴力は礼賛しないが、
自由という名の下に、未来を創造しようではないか。
従順だけが手段ではない。
そのための破壊なら、だまって黙認しよう。
その代わり、将来背負うであろう、その痛みこそは代償なのだ。

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