フランク・パヴィッチ『ホドロフスキーのDUNE』をめぐって

ホドロフスキーのDUNE 2013 フランク・パヴィッチ
ホドロフスキーのDUNE 2013 フランク・パヴィッチ

魂の戦士たちと共に、終わらない夢を語ろう

人生で何か近づいてきたら”イエス”と受け入れる。離れていても”イエス”だ。『DUNE』の中止も”イエス”だ。失敗が何だ?だからどうした?『DUNE』はこの世界では夢だ。でも夢は世界を変える。

アレハンドロ・ホドロフスキー

アレハンドロ・ホドロフスキー。
いやはや、こんな男、ちょっといない。
彼の映画を見るたびにそう思ってきたのだが、
今回はとある未完成映画を巡る裏側とホドロフスキーという
人間そのものの魅力を暴き出してゆくドキュメンタリー映画の話をしよう。
これが実に興味深くて面白いのだ。

それにしてもなんと魅力的なんだろうか?
情熱的で、そして感性豊かで、それでいて深遠な魂を持つ男。
さて、そんな男が実現しようとしていた壮大な夢の映画、
出来上がっていたら、以後のSF映画そのものの歴史が
絶対に変わっていたに違いないとまで言われる
幻のSF映画『DUNE』について書く前に、ふとよぎった男の話で、
つまり『田園に死す』で、今の自分と過去の自分が
時空を超えて対峙する映画を撮ったあの寺山修司は
ホドロフスキーの『エルトポ』を観て嫉妬したのだそうだ。
なるほど、寺山の気持ちがよくわかる。
きっと『リアリティのダンス』を観たら、
さらに悔しさでいっぱいになっていたはずである。
直接的な影響がどこまであったか否かはさておき、
寺山修司とホドロフスキーは時空を超えて
確かにどこかで繋がっているという気はする。
魂の兄弟なのかもしれない。

もっともスケールの点では、ホドロフスキーのロマンは
寺山修司以上に大きいように思われる。
未完であるがゆえに、ロマンが膨らむのか、
ロマンが膨らみすぎて未完になったのか?
その辺り、ホドロフスキーの未完の傑作『DUNE』を巡るドキュメンタリーは、
あらゆる完成された映画とは別の、
実に魅力的なオーラが飛び交う。
概ね、それは人と人とを結びつける、
底なしの人間力といっていいのかもしれない。

ゆえに、完成の陽の目を浴びなかったにもかかわらず、
この作品が、後世に名を轟かせるスケールを持った大作であることとは別に、
ホドロフスキーの意匠とその情熱が、
この作品の根底に流れていることを再確認できる点で貴重な資料となっている。

フランク・ハーバート原作のこのSF大作は
まず、ホドロフスキの人選「魂の戦士たち」からして
多くの人を惹きつけるにやまないプロジェクトであったことは
そのリストを見れば一目瞭然である。

まず、美術面ではフランスのバンドデシネ作家
メビウスことジャン・アンリ・ガストン・ジローが
絵コンテを描いた。
この絵が実に素晴らしい。
コンテだけでも十分見応えのあるものとして現存する。

また、SF映画『エイリアン』のクリーチャーデザイナーとなったH・R・ギーガー、
そして特撮を担当したダン・オノバン
音楽には『狂気』の世界が裏付けるバンドの精神性こそが
この映画に相応しいと見初めたピンク・フロイド、
そしてマグマといった顔ぶれがスタッフに顔を連ねる。

次に、俳優陣には、タランティーノ『キル・ビル』シリーズでも
有名になったデビッド・キャラダインを始め、
泣く子も黙るロックスターミック・ジャガー、
あるいは重鎮かつ問題児オーソン・ウエルズと並並ならぬ名が並び
そして銀河帝国の皇帝には美術界きっての異端児ダリしかないと考えた。
そこでホドロフスキーは各々アプローチを開始する。
中でも熱が帯びた話がダリとの逸話である。

読んでいたタロットのページから
「吊られた男」のページを裂き、映画に出てくれませんか?
という誘い方がダリの気に召したというのだ。
次にパリで会う約束したというその場面がなんとも素敵だ。
ダリはホドロフスキーに言った。
自分はかつてピカソと海岸へ赴いたのだと。
車を降りると砂浜にたくさんの時計を見つけたのだと。
君は砂浜で時計をみつけたことがあるかね?
なんてあのダリに面と向かって尋ねられたホドロフスキーは、
とっさに答えに困った。
見つけたといえば、見栄っ張りでバカだと悟られる。
見つけたことはない、といえば退屈な奴だと思われる。
そこで、詩的ひらめきにかけるしかない。
「(見つけたことはないが)無くしたことならある、たくさん落とした」
と切り返した。
このとっさの機知に詩人のインスピレーションを感じたダリは、
出演をOKしたのだという。

まあそこまではいい。
しかし、問題はギャラである。
なにしろハリウッド一高いギャラを要求する男である。
時給10万ドルなんていう法外なことをいってくる。
この映画の最終制作費が1500万ドルだというから
それは一出演者へのギャラとしては
映画製作を根本から揺るがすほどの金額であり、
現実的には断念せざるを得ない要求であったが、
ダリがいなければ始まらないホドロフスキーなのだ。
ダリの出演シーンを3分とみて、
1分10万ドル、つまり30万ドルで交渉は成立。
いやはやなんとも夢のような世界、話である。

このほか、ダリは当時囲っていた愛人のアマンダ・リアの出演まで要求し
流れでイルラーン皇女に抜擢。
彼女はそれでもホドロフスキーの立場に立って
献身的にダリとの間を色々取り持ったのだという。
そうしたエピソードもリア自身の口から語られる。
しかし、ダリは何と言ってもあのダリである。
まず人を褒めないダリが推薦したのがあのギーガーである。
今度はそのギーガーを求めてスイスへと乗り込む。
悪役ハルコンネンはこれで彼に決定だ。
「ハルコンネン男爵の城」の美術も担当する運びなのだが
もちろん、映画など出たこともない俳優素人を口説き落とし、
あのギーガーをも魅了してしまうのだから凄い。
のちの『エイリアン』での成功の萌芽が
ここですでに懐胎されていたのだろう。
そのギーガーを誘って、パリで
フランスのプログレッシブジャズロックバンド
クリスチャン・ヴァンデ率いるマグマのライブに足を運ぶ。
「ハルコンネン男爵の城」のシーンに必要だと考えたのである。
ギーガーとマグマの組み合わせなど、いったい誰が思いつくというのか。

レト公爵役のデビッド・キャラダインとの出会いでは
ホテルの一室に現れたキャラダインが
ホドロフスキの愛飲していたビタミンEの瓶を
出し抜けに一気に空っぽにしてしまったという
わけのわからない話を語り始める。
まあ、このわけのわからなさこそが
実に魂の戦士たるに相応しいというべきかもしれない。

フェイド・ラウサ役ミック・ジャガーには、
ある広いパーティー会場で遠方から、目配せしたという。
まさに眼ヂカラに魅入られたロックスターは
ブルジョワジー群衆をかき分け、
この熱量の眼差しの前に現れ、二つ返事で承諾したらしい。
オーソン・ウエルズに至っては、何と言ってもあの巨漢。
あの存在感。
そして映画史に轟く名声と悪評。
美食にかまけて映画どころではないという風評に怯みもせず、
この天才映画人たるガストロノミーのハートを射止めるには、
パリのウエルズ御用達の料理人を帯同させるなどいう手を打つ大胆さを提案。
それもまた、怪物の心を射止めるにやぶさかではなかったという話である。
ちなみに、構想では『DUNE』の冒頭は
オーソン・ウェルズの傑作『黒い罠』の冒頭の長回し、
あのロングショットに触発されたシーンになるはずだったというのだ。
うむ、なんとも映画狂がくすぐられる裏話だ。
このリスペクトがあってこそ、
料理人帯同などという奇想天外なオファーにつながっているのが面白い。

真偽のほどは別として、本当にどれもが実に魅力的な逸話ばかりで、
それを揚々と語るこのホドロフスキーという男の器の
計り知れなさにまんまと引きこまれてゆく。
まさにこの「魂の戦士たちへのスカウト術」を聴いているだけでも
実にうっとりとしてしまう。

そんなワクワクする映画構想がついに出来上がり、
いよいよというところまでこぎつけたものの、
かように膨らむだけ膨らんだホドロフスキーの精神は、
空中で頓挫してしまう。
ハリウッド製作側は企画そのものへは大いに関心を示したが、
ホドロフスキーという男にかけるだけのキャパを持ち得ていなかったのだ。
まさに「芸術より金」の概念まで覆すことはできなかった。
そして『DUNE』はのちにあのデヴィッド・リンチを迎えて
完成し陽の目を浴びることになる。

残念ながら、僕はまだ目にはしていない。
しかし、このドキュメンタリーをみて、
そこだけは見る必要がないとまで確信している。
つべこべいうつもりはないが、要するにすべてはまやかしだ。
そもそもがホドロフスキーの壮大なるロマンに
匹敵するものなどあるはずもない。
映画の挫折とそれを他の誰かに実現されてしまうことへの落胆絶望は、
計り知れなかったのだ。
あのホドロフスキーでさえも、そんな失意を
簡単に打つ消すことはできなかったという。
しかし、ホドロフスキーは失意の中で現実を見る。
デヴィッド・リンチによる『DUNE』の
あまりの駄作っぷりが反対に彼を勇気付けることになるのだ。
リンチへのリスペクトは惜しまないが、
彼の『DUNE』はホドロフスキーの『DUNE』に勇気を希望を与える出来だったのだ。
その辺りを実に人間味たっぷりに語るホドロフスキーが実に愛おしくなってくる。
皮肉なものだが、そうして尊厳が守られたのだ。
この企画に関わったあらゆるものたちだけは理解していたのだ。
『スター・ウォーズ』『フラッシュゴードン』『ブレードランナー』
『ターミネーター』『プロメテウス』etc
『DUNE』がハリウッドにもたらした影響は計り知れない。
その事実は完成されなかったこと以上に大きな遺産であるのだと。

1976年、無軌道で物議だけを醸し出した幻の処女作『ファンドとリス』で
海のものとも山のものともわからないまま始まったその映画作り以来、
ホドロフスキーのあくなく探求と挑戦が始まる。
『エル・トポ』である種、魂の共感と支持を勝ち取ってからも
ホドロフスキーの芸術映画志向は
壮大な夢の挫折を味わいながらも、いまだ底を見せなどはしない。
そのことは『リアリティのダンス』や『エンドレス・ポエトリー』を見ればわかることだ。

このドキュメンタリーが撮られ、
その中で尚も醒めやらぬ情熱をあふれんばかりに語り続け、
300歳まで生きたいとまるで少年のように笑い語る84歳のこの魂の戦士の作品を
可能な限り見続けていたいと切に願う。
さらにいうならば、ホドロフスキーが存在していることで、
あるいは存在し、作品を残したことに
おおいに勇気付けられ、希望というものを分かち合う、
この素晴らしき魂の伝道師、魂の錬金術師に感謝と永遠なれ。

Steve Reich – The Desert Music

砂丘(DUNE)と砂漠(DESERT)とでは少々ニュアンスは違うことはこの際どうでもいい。がホドロフスキーの『DUNE』が未完に終わった以上はすべてが不毛なのだ。そんな不毛な論争に巻きこまれたくはない。その意味ではスティーブ・ライヒの『The Desert Music』のミニマリズムの洪水はすべてを洗い流してくれるであろうある種の福音の音楽として聞こえてくるのだ。

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