クエンティン・タランティーノ『キル・ビル』をめぐって

キル・ビル 2003 クエンティン・タランティーノ
キル・ビル 2003 クエンティン・タランティーノ

はりキル・あらビルの、女命のプライドをかけてのエンターテイメント。さあ予習復習を楽しもう

罪を憎んで人を憎まず、
カッコよく言えば、常にそんな生き方をしたいものだとは考えるのだが
人間、そう簡単に聖人君子のようにはなれはしない。
そう、復讐譚こそが多くの芸術のモティーフになってきたのを見ても
ある意味、憎しみこそがパワーの源であることは間違いない。
初めに動機ありき、ドラマを膨らませるにあたって肝心要の部分ゆえに、
その切り口は多種多様である。
そんな数ある復讐劇の中から、タランティーノの『キル・ビル』をあげよう。
ここで改めていうまでもなく、実に、腹一杯、渾身のB級作品であるが、
一言で片付けられるような単純な映画でもない。
多くのオタクが胸躍らせるエンターテイメントカルトムービー。
石井輝男がキングオブカルトだとすれば、
タランティーノの場合はナイトオブカルト、そんな感じがする。

ここでは、前編・後編二部作の大作を区切らずに
単に『キル・ビル』として語ってゆく。
そのストーリー自体にさして深みがあるとも思わないものの、
エンターテイメントとしてはやはり抜群に面白く観れる。
まして、颯爽とした美女が次々と復讐を果たしてゆくアクション劇は
みていて飽きる場面がないのだ。
単に感情移入することなく、その美学に素直に身を任せて酔いしれる、
以下、そんな映画として、この『キル・ビル』を
楽しませてもらった人間の身勝手な戯言にすぎない。

はじめに、僕個人はそこまでタランティーノの信奉者じゃないし
彼の映画の資質が必ずしも好み、というわけでもないと断っておく。
『パルプフィクション』にせよ『レザボア・ドッグス』にせよ、
いまいちその面白さにはピンとこなかったと認める背景がある。
着想や音楽の使い方など、そそる感性は認めるが、
映画として、これまでは深くのめり込むようなことはなかった。
それはただ単に好みの問題に過ぎないが、
この『キル・ビル』に関しては
僕が好きな要素がリスペクトの名を借りて
いろんなところに鏤められてあるのがなんとも痛快だった。
日本映画、とりわけちょっとコアな任侠映画。
そしてカンフー映画からマカロニウエスタンまで、
いたるところに散りばめられたオタクテイストが
あたかもパンパンの鯛焼きの餡のように詰まっている快作だ。
食指が動くのはそうした数々の仕掛け、導線だ。
これほど元ネタ探しが楽しい映画もあるまい。
結論から言えば、ただそれだけの話ってことにもなるのだが、
そういって仕舞えば元も子もない。
映画オタクの大がかりなお遊びに付き合うことになる映画だとはいえ、
こちらもそう覚悟を決めて、見る前、見た後、
長くじっくり味わえば味わうほどにハマってゆく。
なので、ネタを知ってからも何度でも見返したくなるかもしれない。

タランティーノが梶芽衣子の大ファンというのはよく知られた話で、
当然のごとくエンディングに「恨み節」が流れる。
何ともニンマリするところだが、肝心の梶芽衣子主演の『修羅雪姫』の引用は
あくまで様式美に過ぎず、『キル・ビル』そのものが背負う「復讐劇」としては
少し唐突な気配がしないでもない。
が、この異国の心の底からの熱狂マニアっぷりが高じて
撮り上げたエンターテイメントに、いちゃもんをつける気は毛頭なく
むしろ、面白く拝見したという意味では、
正真正銘のタランティーノ神話の、遅ればせながら
ようやくその住人になれた気にはなっているのだ。

後半最初にモノクロでフラッシュバックされる教会での惨劇シーン。
身重のウエディングで、瀕死の重傷を追って以来、
子供はおろか、友人もろとも皆殺しの目に遭って
当人は四年もの間、昏睡状態に陥って
そこからの大復讐劇がはじまる、という物語だが、
復讐そのものより、それにつきまとうアクションの数々、仕掛けに
どうにもワクワクさせられずにはいられないのだ。

まず、第一部での日本を舞台にした
あの壮大な活劇ぶりにはスカッとするものがある。
前半戦ラストでの、まさに修羅場こそは
『修羅雪姫』リスペクトゆえのパロディ仕様だ。
そこに至る前から執拗に導線は敷かれている。
我らのSONNY千葉こと、千葉真一演じる刀鍛冶が
『影の軍団』服部半蔵の名前の借りて、彼女に刀を授け
その宝刀によって、バッサバッサ斬ってゆくシーンの橋渡しになっている。
そんなブライドこと、女刺客をユマ・サーマンが終始勇ましく演じきって
何とも格好いいのだが、
その相手、ルーシー・リュー演じる殺人集団「クレイジー88」率いる
女ボスコットンマウスことオーレン・イシイの悪夢の過去だけが
アニメパートで展開される凝りようだ。
そこでは、彼女の複雑なキャラクター背景を、
見事にアニメーションだけで描いてみせるのが
日本が誇るアニメプロダクションProduction I.Gの仕事であり、
相変わらず、タランティーノの目の付け所は貪欲で卒がない。
そしてオーレンは「チャイニーズとの合いの子アメリカン」と
その血筋を揶揄されたことに容赦なく、
国村隼演じる親分の首を刎ねたかと思うと、
さらに「ヤッチマイナァー!」の名文句にはじまる青葉屋シーンでは
カンフーパロディの用心棒キャラ、栗山千明扮するGOGO夕張を従え
大いに暴れて、最後は雪の庭園に見事散るのだ。
ちなみに、ゴードン・ラウや田中要次らの「クレイジー88」に
タランティーノ自身の顔も覗く。

ひとつひとつの場面を順追って語っていくのは骨がおれる。
前半での日本料理店青葉屋での大がかりな殺陣シーンから
ラスト、オーレン石井との「修羅雪」対決までの一連のハイライトは
ブルースリーを彷彿とさせる黄色いトラックスーツに颯爽と身を包んだブライドが
三隅研次真っ青な「子連れ狼 三途の川の乳母車」ばりに
あたり一面地の海となる殺陣シーンをこなしたあと、
最後は梶芽衣子への最大のリスペクトっぷりを決める、そんな一幕
オマージュラッシュを堪能すべしというところ。

そこからが折り返し、後半は前半とは多少温度差がある。
生き埋め棺桶脱出劇や
ブライドVSスネークといった女同士の対決もあり、
相変わらず、ビルからの刺客との戦いはつづくが
どちらかといえば、復讐のネタバラシとともに
宿敵ビルへの直の復讐劇が中心となって、ブライドの内面性や人生、
彼女の復讐の意義、そのものを再考させられる方向へと向かってゆく。
かつての恋人であり、師ビルから学んだ「五点爆破心臓破り拳」で
その相手を倒すことでこの復讐が終わるにも関わらず、
死んだはずの娘B・Bが生きていたというオチが待ち受けているのだ。
こうして熱狂的なアクション復讐劇から一転、
彼女は我が娘と共に新しい人生を歩き出すのである。
東洋的な視点でみれば、ここから彼女は
哀しき因果そのものを背負って歩んでいかねばならず、
子連れ狼ならぬ、子連れブラックマンバとして
彼女はその宿命を背に、新たな茨の道をいかねばならないのである。

これでもまだ細部を十分に触れ得ているとは言えないが、
これ以上深入りしたとて
映画の魅力を伝えることにはならないだろう。
タランティーノの野望はそう簡単には尽きはしないということだ。
こうして振り返ると、なんと言っても『キル・ビル』は
ユア・サーマンが凛々しくかっこいいのは見ての通りだが、
スネークチャーマーこと、組織のボス役
ビルを演じたデヴィッド・キャラダインがなんとも渋いのだ。
復讐を企てられるほどに非道なキャラというよりは、
中国拳法の師匠パイ・メイ役をやっても違和感がないような、
どこか仙人のような超越感漂う風采が、実にいい味を醸し出していた。
キャラダイン自身、実際テレビドラマでカンフー役を演じたほどに
中国武術にも精通した俳優だった。
キャラダインという人は、あのホドロフスキーが
幻のSF大作『DUNE』の構想では、レト侯爵役に決めていたほどの俳優だ。
この構想では、他に皇帝役でダリを予定し、
ミック・ジャガーやオーソン・ウェルズが名を連ねるほど壮大なものだったが
法外な予算や規模から実現せず、のちにリンチによって
『デューン/砂の惑星』へと引き継がれたのだった。
そんなキャラダインの存在感が、個人的に実にツボったといえる。
ストーリーとしての甘さや多少の強引さをもうまく包み込んでいるのは
このキャラダインの存在が大いに貢献しているように思えるのだ。

ちなみに、映画のスケールや内容はかくも壮大で
素晴らしいエンターテイメントに仕上がった『キル・ビル』だが
自己愛性災害とやらの、少々哀れなる最後を遂げたのが
実生活のデヴィッド・キャラダインであり
タランティーノとユア・サーマンの間にも、
撮影中のトラブルで負傷を負ったことで深い溝ができてしまったというのが
この映画の後日談でもある。
くれぐれも映画と現実を混同することなかれ。
えてして、オタクという人種は物事の分別がつかなくなるものだ。
これは映画オタク人への警告ともいえるのかもしれない。

梶芽衣子:怨み節

思えば東映の『女囚さそり』から世界の『Kill Bill』に繋がるとは誰も考えていなかっただろう。オタク命、オタク道の極みである。梶芽衣子と対面したタランティーノは30分手を握りっぱなしだったそう。さすがの女囚さそりも、恨みどころか、冷や汗が出たんじゃないだろうか?

花よ綺麗と おだてられ
咲いてみせれば すぐ散らされる
馬鹿なバカな 馬鹿な女の怨み節 

カンデ・イ・パウロfeat.梶芽衣子:修羅の花 

梶芽衣子ファンは何もタランティーノだけではないのだ。こちらは、その「キル・ビル」の劇中歌を聴いて、梶芽衣子のファンになったというアルゼンチンの男女デュオ、「カンデ・イ・パウロ」がオファーを出して実現したのがこれ。梶自身、74歳でイギリスの名門デッカ・レコードから歌手として世界デビューということになった。まさに、オタクの輪に花が咲いたってわけね。
ちなみにこのカンデ・イ・パウロは、コントラバス/ヴォーカルのカンデ・ブアッソとキーボードのパウロ・カリッソの二人組、サンフアンで国立大学で教授をしていたパウロの教え子がカンデという関係のようだ。ファーストアルバム『Cande Y Paulo』のプロデューサーが巨匠ラリー・クライン。その力の入れ様をみれば、おのずと期待のほどが窺える。カバー曲を中心とはいえ、アルバムを聴けば、その力量はなかなかのものである。個人的にはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの“I’m Waiting For The Man”のボッサアレンジに思わずツボってしまった。そんな二人と梶芽衣子が「キル・ビル」を通じてコラボするのだから、夢があるよね。