サミュエル・フラー『ショック集団』をめぐって

Shock Corridor  1963年 Samuel Fuller
Shock Corridor  1963年 Samuel Fuller

狂え正常者たちよ、映画は扇情だ

“神は滅亡を願う時、まず人を狂わせる” 
エウリピデス紀元前425年

人に対しては嘘をつくこともあるが、
自分にだけは嘘をつくまいと思う。
迷うときには内なる声を信じるだけだ。
自分を偽って生きることほど自分に対する裏切りはない。
はっきりと言ってしまおう、
神への冒涜でもあるのだと。
B級映画の帝王サミュエル・フラーの『ショック集団』を
初めて観た時の率直な思いである。
それゆえある種の恐怖、興奮、めまい・・・
あの感情のどよめきは
忘れがたいほど強烈なものだったと今なお記憶している。

好きな映画の一本だというのに、
なんだか、言葉にするのにも憚られる、
そんな気持ちになるなんてことはそうざらにあるものじゃない。
この映画を一言で言い表すならば
「ミイラ取りがミイラになる」映画である。

犯罪レポート、事件記者上がりのフラーだからこそ、
こんな映画が撮れるのだろうか。
恐ろしくもセンセーショナルな映画『ショック集団』は
とある精神病院での未解決殺人事件を巡って
真相を究明しようと野望に駆られた
“正常なる”意識の新聞記者ジョニーが
精神病院へ潜り込もうと思案し始めるところから始まる。
正常な人間を収容する精神病棟などあるわけもないのだから、
そこからこの映画のサスペンスが幕を開ける。

つまりは狂人のふりをして
どうにか欲望を満たそうと潜入するのである。
しかも、恋人キャシーを共犯者にして
ここでは妹としてその性的な欲望の異常さを理由に、
狂人になりすます恋人を後押しするのである。
当人は本望かも知れないが
ただでさえ、首ったけである恋人が
その惚れた男をそんな危うい目に貶めるような真似をして
予想通りミイラ取りにまでしてしまうのだから
たまったものではないだろう。
それこそ発狂したとしても不思議じゃない。
結局は殺されたスローンなる人物は話しの肴であって
ミステリーの謎解きは闇のまま葬り去られる。

それにしてもこの映画は凄まじい狂気に満ちている。
ワイズマンの『チチカット・フォーリーズ』も
衝撃的なドキュメンタリーだったが
こちらはいかにフィクションとはいえ、少し過激すぎる。
ホラー以上の恐怖を感じるのだ。

タイトル通り、あの病棟の回廊に雷を伴う土砂降りの雨が降るシーン。
これでもかと言わんばかりの凄まじい原風景を
見せつけられたショックは
まさに網膜的な電気ショックと呼ぶに相応しい壮絶なシーンであった。
もちろん、この映画はそれゆえに記憶から離れず
どこか人間の精神の脆さ、危うさを
精神の破綻者を通じて我々に問うてくる何かがある。
正常とは? 異常とは?
言葉で定義するのは難しい。
そしておそらく答えはない。

いやはやサミュエル・フラーは恐ろしい監督だ。
こういう映画に出演した俳優たちは
一体どういう心理状態で撮影に臨んだのであろうか?
撮影後に後遺症は出なかったのか?
そんな心配に駆られてしまうほどだ。

アマゾネスたち、色情狂の女たちに襲われる強烈なシーン。
オペラを歌う“ルームメイト”の奇妙なおかしみ。
あるいは南北戦争の傷跡をもつ男の歌う”ディキシー”の切なさ。
人種差別の迫害を受けた後遺症をもつが
逆に白人至上主義を高らかに宣言し攻撃を増長させる黒人、
あるいはノーベル化学賞を戴冠するほどの元物理学者が
原爆製造に関わったことへの呵責から
精神年齢6歳の幼児退行を繰り返すシーンの憐れみ。
どれもがリアルすぎて笑えないほど真に迫ってくる。
戦争、性倒錯、差別・・・
アメリカ社会が抱える闇を精神を患う人間たちに語らせ
おまけに病棟はまさにクレイジーな喧騒で満ち満ちてゆく。
これはもはや地獄絵図である。
そんな中に冗談にも紛れ込もうと挑む神経が理解できない。
映画は戦場だと言ってのけたフラーだが
精神病棟を戦場にして、勝ち目はない。
精神の破綻者たちと理解し合う術はないのだ。
そうして、きっかけは立派に“正義”だったはずの男が
徐々に狂っていくその過程に
実に生々しいほどに引き込まれてしまうのだ。

この映画には「ミイラ取りがミイラになる」までに
三つの流れがある。
一つは恋人との関係性である。
キャシーはジョニーを愛するが、
金のためにいかがわしくも男の視線に晒される職業を選ぶ。
野心に燃えるジョニーとの温度差で少しづつ乖離してゆく。
一つは、ピューリッツァー賞を取るために
つまりは名誉欲しさに手段を選ばない記者魂、
というかそのプレッシャーが
むしろ狂人への道を後押しするかのように
逃げ場のなくなったジョニーをさらに追いやってゆく。
最後は「これは私にすべて起こったことだ」とあるように
低予算でB級映画監督として名を馳せてきた監督の真骨頂が
随所に炸裂する。

全編に渡ってモノローグとして並走する主人公の内なる声。
そこにはバニガール姿の恋人のミニチュアが幻影となって現れる。
また全編がモノクロなのに、唐突に挿入されるカラー映像。
大仏、富士山、アマゾン、ナイアガラ。
まさに精神の破綻者を煽るかのようなリアルな映像が唐突に現る。
そんな映画だから、面白くないわけがないのだが
やはりテーマは重く、一筋縄ではいかぬのだ。

危ない橋を渡らないと獲れないピューリッツァー賞など
なんの価値があるのか?
自分にだって多少の狂気や異常はある。
そんな風に考える観客なら自分を正常者に思えたであろう。

所詮、この世は嘘ばかりが横行する。
嘘ほど面白く、嘘で塗固めることで身を守っている人間ばかりだ。
だから、正直に生きようと目覚めてしまったなら
狂うより他ないのだ。
社会に目を向けずとも、
そうした人間の縮図がここにある。
いっそ狂ってしまった方が楽なのかもしれない。
いや、やはり、それだけは勘弁願いたい。
そんなささやかなる抵抗だけが、人間して、
最低限の人間として繋ぎ止めておく、唯一の手段なのかもしれない。

Peter Gabriel : Shock The Monkey

ショックつながりで、ピーガブこと、ピーター・ガブリエルの「Shock The Monkey」をひっぱってきたけど、映画のような恐怖とはまったく違って、ピーターいわく、「人の心にあるジェラシーの比喩」に猿というワードを当てはめているということらしい。なるほど、まあ言いたいことはなんとなくわかる。うまく言えない愛情表現の殻を破るために、ジェラシーを抑えきれない僕=猿にショックを、ってなことなのかしら? ピーター・ガブリエルらしい哲学的な歌詞だこと。わかったような、わからないような。とにもかくにも、僕はこの曲を聴いて軽いショックを受けたのを覚えている。PVもいいけど、ライブ版の方では、ガブリエルの秀逸なモンキーパフォーマンスがみられる。今見てもエネルギッシュなかっこいいステージだ。