ごっこ遊びは三つ巴、パルプフィクションは未だ継続中。
チンピラというにはあまりにもふざけすぎていて、
ギャングというにはつたなすぎる悪党ぶり・・・
いずれ、終幕は見えている。
欲しいものはなんなのか。金か女か友情か?
それとも刹那の快楽か?
うすっぺらいようでいて
実は絶妙な息とリズムでもって繰り広げられる、
男と男が一人の女を挟んで、トライアングルに揺れるどたばた劇。
『Bande A Part 邦題:はなればなれに』こそが
JLG流アンチハリウッド、フィルムノワールの真髄ってやつか。
はたまた、決定的なものは死なのか、それとも詩?
そんなキュートなミューズ演じるアンナ・カリーナ全盛期。
それはレーモン・クノーの小説『オディール』の主人公の名だ。
これぞ、シネマの革新的確信犯、
若き日のJLGが現在進行形の死=詩のみずみずしさを散りばめるところを
ラウル・クタールのクールで爽快なカメラがなめて、
モノクロームの共犯者は終始軽く、されどしっかり軌跡を追う。
伴奏にはあの『シェルブールの雨傘』のミシェル・ルグランで決まり。
そんなミューズをめぐる男たちとの三つ巴物語は、
あたかもカフカのような影を匂わせるサミ-・フレイが、
まま、フランツとなのり、
晦渋なまでに物静かな陰うつさを演じれば、
一方、悪党ラスネールの末裔らしく、
クロード・ブラッスールがアルチュールなどとふてぶてしくも
呪われた運命の詩人を名のる役で
ランボー叔父さんにあっけなくやられて伏す。
それにしても何もない。
ことは短絡的に処理される。
ただ車と女の子とカフェ、そして馬鹿馬鹿しい遊びがあるだけだ。
それも、少しぐらいはみだしているぐらいがちょうどよく、
すこしぐらいぶしつけな方がかっこいいとくる。
最後は一つの法則のように、
死すべきポエジーによってしめくくられるんだな、これが。
LGのナレ-ショーンが詐欺的なまでに
ややもすれば、すぐにでも壊れゆく映画に
さも意味ありげな言葉をつぶやいて
ことごとくギリギリに映画たらしめんと憎い演出を繰り出す。
たとえば、3人示し合わせの一分間の沈黙。
あるいは、チャップリンよろしく
パンでロールダンスを踊るオディールとアルチュール。
ミシェル・ルグランの、グルーヴィーでブルージーな曲で
タランティーノの『パルプ・フィクション』
ハル・ハートリー『シンプルメン』などに影響を与えた、
マジソンダンスと呼ばれるダンスを踊るミュージカルごっこに
美術館内を猛スピードで駆け抜けるシーン。
これにものちにベルトルッチ『ドリーマー』や、
ヴァルダの『顔ところどころ』でも真似された、
とにかくフォロワーたちが絶えないような
なんともクセになるシーンが随所に挿入される。
文字どおり、美よりも速く駆け抜けた映画は、
長い間お蔵入りになっていたのが嘘のよう。
いみじくも、ゴダールとのアンナ・カリーナによる独立プロ、
アヌーシュカ・フィルムの製作第一弾である。
だがここ日本で日の目を浴びたのがなんとほぼ四十年後。
JLGが「不思議の国のアリス・ミーツ・フランツ・カフカ」と言い放った不条理ファンタジー。
その名も『はなればなれに』は
「これで、私のパルプ・フィクションのようなお話は終わる」
というナレーションで幕を閉じるのだが、
結局、虜になって魔法をかけられたタランティーノが
文字通りの『パルプ・フィクション』で
その続きの幕を再びあけたってわけよね。
それはさておき、友達内でひとりの女をめぐって
とりあうような、焦がれるような、そんな体験
一度はやってみたかったな。
男の花道を飾るラストドリームなら、
いまからでも遅くない、か?
アンナ・カリーナでも、ジーン・セバーグでも、
アンヌ・ヴィアゼムスキーでもシャンタル・ゴヤでも
この際、だれだって構わない。
なんて、たわけた口をすべらせるものなら、
そこの素敵な君は呆れてものも言えますまい。
なんといっても、それはJLGにとっても
すべて過去の出来事にすぎす、
若き日のシネマ革命のさなかの夢模様ってわけだから。
男がとりあうほどに、そんな、魅力的な女に遭ってみたかったら
どうそ、夢を叶えましょう、このスクリーンにて・・・
てなわけで、『Bande à part 』
直訳すれば「はなればなれに」っていうのか、
いや、でも「はぐれもの」「排除された」という意味が原題だから
文字どうり、このイカした狂騒から
はみだされるってのが怖くなるっていうものだ。
そして、真のミューズならこういっただろう。
パルプフィクションは未だ継続中、だと。
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