サロン D’アキ・カウリスマキ

アキ・カウリスマキ 1957ー
アキ・カウリスマキ 1957ー

アキ風の隙間に添える、北欧式ワビ・サビの美学

時代の中心に立つ監督が必ずしもいい監督とはかぎらない。
すくなくとも、僕のようにひねくれた人間には。
その周辺にいる味のある監督たちを
ひとりごちながら、静かに発見するのが映画好きの醍醐味ともいえる。
控えめに、人間のささやかな営みのほころびを紡ぐ映画。
だれにも真似できない独特のスタイルで、そんな世界観を描き続ける作家がいる。
フィンランドの映画監督アキ・カウリスマキは、その代表的存在だ。

どこか日本人には馴染む名前の響きも手伝って、
カウリスマキは、80年代、ミニシアターブームに煽られ
ぼくが初めてみたのが『マッチ工場の少女』。
さすがに驚かされた。
セリフが異常に少なく、表情が暗く一定で、
演技なのか、地なのかもわからぬ、
ただ淡々と画面が切り替わる変わった作風が展開され
いつの間にか終わっている。
そのスタイルがあまりにもショッキングだったのを
昨日のことのように覚えている。
それ以来、このスタイルが頭から離れず、忘れられなくなって
どっぷりとその世界にはまって現在に至っている。
そんなカウリスマキに、もっとも入れ込んだ瞬間は、われらがレオーこと
ヌーヴェル・ヴァーグのヒーロー、ジャン=ピエール・レオーが起用された
『コントラクト・キラー』だった。
アントワーヌ・ドワネルから、しばらく、その反動を経て、
ぼくらヌーヴェル・ヴァーグの洗礼を浴びたものたちが
あらためて味合うことになる、アイコンの
なんともいえぬくたびれた姿がそこにあった。

カウリスマキの映画に、派手なドラマ性など皆無である。
登場人物たちは失業者、移民をはじめ、
工場労働者、警備員、ウェイトレス、売れない芸術家といった、
いわば社会の片隅に生きる人々である。
そこで、彼らは文句や嘆きにあけくれるでもなく、ただ、状況に身を委ねながら
時代や社会に取り残された孤独感をかかえ慎ましく生きている。
物語は短く、台詞も極端に少ない。
もちろん、これみよがしな説明的な描写もない。
1999年には、自らサイレント映画(『白い花びら』)を撮っているぐらい、
その素養も十分ある。
俳優たちはほとんど表情を変えず、盟友ティモ・サルミネンのカメラが
静かにそれを見つめるだけだが、
その沈黙の中に、奇妙な温かさとユーモアが宿っている。

カウリスマキの映画を理解するためには、
まずそうした映画史的な流れをしっかり見なければならない。
彼の映画は、しばしば「オフビート映画」と呼ばれるが、
その源流はもっと古い。
たとえば、チャップリンの映画における小さな人間の物語を思いだそう。
社会の底辺にいる人物が、ユーモアと哀愁の中で生きる姿を描くその精神が
カウリスマキ映画の根底にも流れているのがわかるはずだ。
『浮き雲』の主人公が、失業を繰り返す過酷な日々のなか
夫婦というささやかな絆に支えられ、
虐げられた仲間たちと新しい人生を見つける姿には、
チャップリン映画の連帯とペーソスが静かに蘇っているのだ。

また、俳優の演技を極端に削ぎ落とすスタイルには
当然、ブレッソンの影響が指摘されるだろう。
感情を誇張せず、行動だけで人物を描く演出は、
ブレッソンの「モデル(職業俳優を使わない)」という演技理念と共鳴している。
それは、処女作『罪と罰』からすでに芽生えていた傾向だ。
さらに画面の静かな構図や、ミニマルな演出には
小津安二郎の影響が明らかである。
カウリスマキ自身も小津への敬意を語っており、
来日の際には鎌倉の墓碑の前にも立っている。
小津を偲ぶドキュメンタリーのなかで、
最後は「私の墓には『生まれてはみたけれど』と刻みます」と語るほどである。
画面に配置される赤い小道具などは、小津映画の色彩感覚を思わせ
静かな構図の中でぽつんと置かれた赤が、
しばし画面の呼吸を整える小さなアクセントとなることを知っているのだ。

しかしカウリスマキの映画は、単なる引用の集合なんかではない。
彼の映画にはもう一つ重要な要素がある。
それは、映画史そのものへの愛である。
その象徴的な例が、ジャン=ピエール・レオーの起用である。
レオーといえば、トリュフォー映画で生まれた、
ヌーヴェル・ヴァーグの身体性を持つ、象徴的俳優だ。
ここに、ぼくは同時代人として、大いなる共感を抱くのだが、
そのアイコンを主演に据えた『コントラクト・キラー』は、
フランス映画の記憶を自作の中に呼び込む試みでもあった。
見放された人生に、自らピリオドを打たんがために
殺し屋を雇うも、人生の幕に咲く恋の花に
生きる希望を見出す物語には、良きフランス映画の土壌をも
さりげなく漂わせた。

そして、続く『ラヴィ・ド・ボエーム』では
本格的に、ルネ・クレールなどのノスタルジックなまでの
古いフランス映画のスタイルを借りて、みごとにカウリスマキの世界を構築した。
古いポスター、古いロックンロール、ネオンの灯る酒場、古びた車、そして映画館。彼の映画世界はまるで、映画史の記憶がゆっくりと堆積した空間のようである。
カウリスマキの映画には、映画内抒情に、こうした映画史の痕跡が
さりげなく散りばめられているのだ。
こうした映画史的感覚の肌感は、
アメリカ人の作家ジム・ジャームッシュとの交流にも現れ、共有している。
ジャームッシュは『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』に友情出演し、
逆にジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』では
ヘルシンキ編にマッティペロンパーをはじめとする
カウリスマキ組の俳優たちが登場した。
二人の映画は、ミニマルな演出と、デッドパンのユーモアという点で共鳴している。その友情は後年の作品にも継承されている。

引退宣言を撤廃した2023年の復帰第一作『枯葉』では、
ゴダールの『気狂いピエロ』、デヴィッド・リーンの『逢びき』など
過去の映画のポスターが掲げられる古びた映画館で
主人公カップルのホラッパとアンサが見ているのが、
ジャームッシュの新作『The Dead Don’t Die』だったりする。
映画の中で映画が上映されるこの瞬間こそは、
まさに、友情の交感であり、そして映画史の中の対話のようにも見える。
カウリスマキにとっては、映画館は単なる場所ではないのだ。
彼は実際にフィンランドの小さな町に映画館を作り、
その過程はドキュメンタリー『Kino Laika』にも記録されている。

映画を作るだけではなく、映画を上映する場所まで作る監督なんて
今の時代、なかなかいない。
その見た目や言動よりも、熱い監督なのだ。
カウリスマキは、映画監督であると同時に、
本人は否定するかもしれないが、映画文化の守り手でもある。
しかし彼の映画の魅力は、映画史の引用だけではない。
そこには、静かな連帯の感覚があり、それが優しさを漂わせる。
カウリスマキ映画の主人公たちは、たいてい孤独である。
失業し、恋に失敗し、社会の片隅で生きている。
だが彼らは完全に絶望しているわけではない。
酒場での会話、古いレコード、犬との生活、小さな恋。
そうしたささやかな出来事の中に、人間の尊厳があるのだ。
そのさりげない交流を、カウリスマキしか取れない距離感で描く。

彼の映画はしばしば「プロレタリア映画」と呼ばれることがあるが、少し違う。
ストーリー上に、世界情勢のきな臭い気配を匂わせはするが、
いちども政治的スローガンの映画であった試しはない。
むしろ、社会の底辺にいる人々の生活を、
静かなユーモアと共感で描く映画が軸である。
その意味で、カウリスマキの映画は、
映画史の中で長く続いてきた「小さな人間の映画」の系譜に連なっている。
チャップリンから始まり、ヌーヴェル・ヴァーグを経て、
現代に至るまで続くその系譜の中で、
カウリスマキは静かな灯りのような存在としてある。

彼の映画の中では、大きな事件はほとんど起こらない。
仮に起きたとしても、誰一人大きく感情を爆発させはしない。
しかし人間はそこにいる。
ネオンの灯る酒場の片隅で、ちびりちびりとちびりちびりと
古いレコードの音に耳を傾けながら、
少しだけ未来を信じながら、命をつないでゆく。
カウリスマキの映画は、その小さな希望を描く映画なのである。
そのささやかさ、慎ましさは、どこか
日本のワビ、サビにもつながった抒情、哀愁を奏でるところに、
たまらない魅力を感じる作家なのである。

ちなみに、僕は一度だけ生カウリスマキをこの目で見ている。
某映画学校のゲストで小一時間ほどの講演というか、映画の話をしたと思う。
残念ながら、内容は忘れてしまったが、
彼は禁煙のホールで堂々タバコをプカプカ吸い煙を吐きながら、
いつものスタイルで、淡々と言葉をはなったいたっけ。
カウリスマキはいつどこにいてもぶれない男なのだ。

小津を語るカウリスマキ

◉ぼくの偏愛的カウリスマキ5選

  • マッチ工場の少女
  • コントラクト・キラー
  • ラヴィ・ド・ボエーム
  • 浮き雲
  • 枯葉

RHYMESTER 『サマー・アンセム feat. 小野瀬雅生』

カウリスマキの映画に音楽は欠かせない。これがなかなか曲者で、にくい選曲は映画とともに、セットでインプットされてゆくだろう。それは、フェリーニとニーノ・ロータ、ヒッチコックとバーナード・ハーマン、ヌーヴェル・ヴァーグとミシェル・ルグラン、あるいは日本のヌーヴェル・バーグと武満徹といった、幸福な関係性以上に親密であり、その映画のなかで、一つの要素として定着している。それは作品の顔として反映され、とりわけ、あのとんがりリーゼントにとんがりシューズで一世風靡したレニングラード・カウボーイズをはじめ、『過去のない男』ではマルコ・ハーヴィスト&ポウタハウカという、これまたフィンランドのバンドがフィーチャーされていたりする。また、『ラヴィ・ド・ボエーム』でのラストシーンには、日本の曲、篠原敏武が歌う「雪の降る街を」が流れたのきっかけに、『枯れ葉』でも竹田の子守唄」というマニアックな選曲ぶりを発揮し、その『枯れ葉』ではフィンランドのヴァーラ出身、ヘルシンキ在住のアンナ・カルヤライネン(ギター)とカイサ・カルヤライネン(キーボード)姉妹からなるポップ・デュオ、フィンランド語で「スパイス・ガールズ」の意味をもつ姉妹からなるポップ・デュオMAUSTETYTÖTがフィーチャーされて、自国ミュージシャンへのさりげない愛も感じさせるのがカウリスマキスタイルだ。

そんなコアな音楽マニアであるカウリスマキに贈る楽曲だが、『過去のない男』ではクレイジーケンバンドの「ハワイの夜」と、そのクレイジーケンバンドのギタリスト小野瀬雅生の「MOTTO WASABI」を使用したが、ここでは大のカウリスマキフリークで知られるその小野瀬をフィーチャーし、これまた映画狂宇多丸の
RHYMESTERとのコラボ 『サマー・アンセム』を選曲しておく。いつの日か、クレイジーケンバンド、あるいは小野瀬雅生がそのOSTを奏でる日が来るかも知れない。