ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.49 偏愛的シネアストサロン

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映画グルを訪ねて、スクリーン一人旅

女優への思いを、自分なりに綴ってみて、
つくづく僕の人生は映画というものに、支えられ
そして刺激を受けてきたのかを再認識してきたのだが
今度は、そこから大元へ。
つまりは映画作家そのものへと目を向けてみよう、
という企画へとなだれ込む。
作家論から、あえて作家サロンと銘打って、
作品を語る、というよりは世界に浸る想いを込めたつもりである。

女優小論でも書いたが、作家論などと大風呂敷を広げたとて、
僕個人の私的な思いは別段、論の意味をなすような
そんな拡張も、また深い考察もない。
それを逃げとして、最初にわざわざ釘刺す必要もないのだが
とにもかくにも、僕は自分がいいと思ったり
好きだと思わない限り、食指が動かない。
そこは原則、最低限のルールとして引いている。
だから、作家を通じて、いいものはいい、悪いもの悪いなどと
その資質をぶったぎるようなこともなく
ひたすらぎこちないような、なんだか回りくどい様な賛辞に、他者を巻き込んで
悦に入ろうということでもなく、
そこは勝手気ままに、ただ好きだという思いを
言語化するだけの試みだと解釈していただきたい。

ここで取り上げる映画作家たちは、
これまでの路線を大いに逸脱する名前などでてはこない。
繰り返し繰り返し言及してきた作家たちを
ときに、重複する言葉や言い換えによって
ああでもない、こうでもないと上書きするだけのことだ。
相変わらず、しまりのない、だらだらとした独り言が続く。
すべての作品を見て、細部にまでこだわり
シネフィルの真似事をしたいわけでもない。
そこには自分としてのフィルターがある。
はじめに「好き」ありき。

所詮、エクリチュールの快楽に溺れた戯言である。
とはいえ、映画はそれよりも深く、
そして、はるかに大きな愛をもって僕を包み込んでくれるだろう。
むろん、それはなにも、僕個人に限ったことでもないし
そこは共感性というもので通じ合っている。
世にいう映画マニアや映画オタク、
そこには映画批評家、エッセイスト、肩書はなんでもいいのだが
映画好きに刺さるものは、必ず、どこかにあるはずである。
それゆえに、ぼくはこうしてわざわざ思いを発信している。

ここには言葉しかない。
しかし、その向こうには、映画という名の夢、
あるいは、作家が積み上げた思いの結晶が広がっている。
言葉から映画へ、映画から言葉へ。
これは映画ファンだけの特権として、
ここになにか素敵な思いが滲み出して
第三者にとどき、共有共感ができれば本望である。

CINEMA – 雨のチャイナタウン

偏愛的な映画作家論を書くにあたって、音楽を選曲するにはいろいろな選択肢はあるものの、特定のイメージに縛られたくはないと思った。音と映像の二足の草鞋を履く作家も珍しくはない。デヴィッド・リンチしかり、ジャームッシュはSQÜRLという音楽ユニットをもっているし、青山真治のようなコアなミュージシャン指向のある作家もいる。ただ、彼らは映画というメディアそのもので語られるべきだし、音楽はそれぞれ、独立して主張し、十二分に聴き味わえるものだが、あくまで、映画あってのものだ。そこで、思いだしたのが、80年代、日本のニューウェーブバンドに松尾清憲、鈴木さえ子、一色進による「CINEMA」というのがあった。鈴木慶一のプロデュースだったこともあって、ムーンライダース周辺の「映像を持たない映画音楽」のような立ち位置のユニットだったことを記憶している。シティポップ路線とも、いわゆるニューウェイブとして十波一絡げにするようなものでもなく、いわば作家的気質の強い三者によるプロジェクトというべき、いまでいう意識高い系のポップミュージックをやっていたのだと思う。

特集:偏愛的シネアストサロン、言葉のおもてなし

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