小沼勝『OL官能日記 あァ!私の中で』をめぐって

OL官能日記 あァ!私の中で 1977 小沼勝
OL官能日記 あァ!私の中で 1977 小沼勝

小津とひよこと風に異化されたポルノ

数あるロマンポルノのなかでも、
ひっそりと置き去りにされながらも、記憶に残る一本の映画がある。
小沼勝による『OL官能日記 あァ!私の中で』にふれてみよう。
華のある傑作というより、むしろ埋もれてしまう作品であるにもかかわらず、
そこには70年代という時代の“自由の匂い”が、
いまなお、微かに漂い続けている強烈な一本として忘れ難い映画だ。

本作には、いくつかの“異物”が潜んでいる。
まず冒頭から、小津安二郎的な気配が奥ゆかしさを演出する。
そんな団地住まいで、父親と二人暮らしのヒロイン小川亜佐美が
仲良く出勤するシーンにもただよってさえいるが、
だからといって、それが小津へのオマージュでもなければ
パロディというほどのものでもない。
ロマンポルノをこよなく愛するものたちは、
その異物こそが“性の消費文化”の枠組みに
そっと風穴を開けるのだと知っているにちがいない。
そして観客は、あからさまに“性”を描く映画を観ているはずなのに、
どこかでそのゆるんだ観念性が
生活の隙間に入り込んだ“風”になびく感覚に包まれるのである。

まず、誰もが驚く「ひよこ」のシーンの唐突さ。
四畳半の安アパート、薄い壁、湿った畳。
性行為が行われるそのすぐ横で、
ひよこがピヨピヨと歩き回る、あの異常さ。
ひよこに象徴性なんかない、あるわけもなかろう。
純粋に“意味を持たない存在”として、ただそこにいる。
小沼勝は、おそらく深い意図など考えていなかったはずだ。
セックスだけじゃつまらないだろ、ひよこでもどうだ?
そんな突発的な演出の意匠が漂っている。
だが、この“意味のなさ”こそが、性のもつ強烈な観念性を破壊し、
行為を生活へと引き戻す異化効果を生んでいるのだ。

べつに、ロマンポルノだから、というだけではないが
やはりこんな奇抜な発想の映画作家はそういないと、改めて思う。
変態、偏執狂、奇才、どれもが言葉では追いつけないこの想像力を前に、
性描写というものが、つまりは欲望・羞恥・消費・観念・禁忌
それらは本来、場面そのものに意味を帯びすぎている気がするのだ。
ロマンポルノはその意味の塊の上で展開せざるを得ないのだから、
そこへ突然、無垢で、日常的で、愉快なひよこが投げ込まれると、
えてして意味の過剰さが霧散してしまうのである。

性はもはや観念ではなく、「生活のひと粒」として再び現れはじめる。
その瞬間、画面の空気がゆるみ、ロマンポルノでありながら、
生活映画のような風通しが生まれおちる。
この“生活と性の境目のゆらぎ”を支えるのが、主演の小川亜佐美だ。
いみじくも、本作が彼女のデビュー作であり
以後、小沼組でメキメキ頭角を現していった彼女のことを、
小沼は自伝『わが人生 わが日活ロマンポルノ』の中で、
明るい笑顔に暗い過去が同居しているフシギな感性の持ち主と評している。
この一文に、彼女のスクリーン存在がすべて凝縮されているように思う。
そもそも、小川は演技で物語を牽引する女優ではない。
むしろ“存在の揺らぎ”そのものが映画を占める女優だろう。
笑うときですらどこか影を残し、受動的でありながら、
ふと主体的な眼差しをのぞかせる不思議な魅力があるのだ。

確かに、十代の複雑で血なまぐさい女としての萌芽期と
腰の据わった娼婦性をかねそなえて、
スクリーンでは過酷なポルノシーンを
艶やかに、体当たりの演技っぷりが魅力的であることを証明しているが、
性描写の最中よりも、その直後の沈黙の方に、
むしろ彼女の本質が立ち上がる。
目を伏せるとき、遠くを見るとき、
表情がふっと曖昧に沈んでいくその刹那に、
“過去の影と明るさの同居”という二重性が滲み出る。
彼女のそんな苦味のある表情にそそられるのだ。
そこで、小沼勝の演出は、絶えずこの曖昧さに寄り添う。
彼女を美しく見せようとするのではなく、
「そのままの呼吸」を閉じ込めようとする。
その態度が、作品全体に“生活の湿度”と“孤独の温度”を
うまく混ぜ合わせながらも、画面にハリを与えている。

そして、この映画を異化の次元へさらに横滑りさせるのが、
カルメンマキOZの「私は風」 ということになろう。
この曲は、ロマンポルノには到底似つかわしくないと思えるかもしれない。
小沼的な湿度と倦怠の空気の中に、
突然、70年代ロックの魂の叫びが吹きつけるのだから凄い。
「私は風」は、主体の欲求、逃走、青春の痛み、自己確立、
そうした“外部”の感情を宿している。
小川亜佐美の曖昧な存在感とは対照的に、曲は強烈な意志を持っている。
この不釣り合いこそが、ここで決定的に
映画全体に異化の風穴を開けることになるのだ。
湿った四畳半に閉じ込められていた性描写が、
突如、風に吹かれてどこかへ連れ去られるように一気に軽くなる。
閉塞から解放へ、受動から主体へと世界は小さな部屋の外へ開き、
性が行為ではなく“生命の震え”として起きるのだ。

ひよこが“無意味の異物”なら、カルメン・マキは“意味の異物”。
その二つが同じ映画の中で作用することで、
ロマンポルノは密室から開放され、
風通しの良い異化作品として立ち上がっていくのを見る思いがする。
『あァ! 私の中で』は、通常の映画史で語られることはないし
決してロマンポルノの傑作としても語られることはないだろう。
ドラマ構成が弱く、技術的にも完成度が高いわけではない。
しかし、それがいい。
傑作ではない作品だからこそ、
70年代という時代の“自由”と“寛容”が、そのまま封じ込められている。
商業映画の論理にも、性の消費文化にも、
完全には絡め取られていない作品として展開されている。
だからこそ、生の温度、風の匂いが残るのだと。

ロマンポルノは、性描写が義務づけられた枠組みである一方、
その枠を内部から破ろうとする“異化の映画運動”でもあったはずだ。
小沼勝は、生活の湿気と無意味の異物、
そしてロックの風という外部を混ぜ合わせることで、
ロマンポルノの閉塞をやわらかく撹拌した監督だ。
その結果、この作品は、性の消費文化に埋没することのない、
ひそやかな異化映画として成立したのである。

ひよこのピヨピヨした声、小川亜佐美の曖昧な笑顔、
四畳半の湿った空気、そして「私は風」。
それらが意味でも象徴でもなく、
ただひとつの画面に共存してしまうことの圧巻さ。
その“整わなさ”こそが、70年代日本映画の自由の証しだ。
あの未完成で、不均衡ながらも、
しっかり映画のなかで生きる意味を問えた時代。
この作品は、どうにも隙間だらけでありながら、
その隙間から風が吹いてくる。
性を観念の檻から解き放ち、生活の中の異物として
不思議なエロティシズムを立ち上げる一本として記憶を離れない。

はっきりいおう、傑作ではない。
だが、この映画にしか吹かない“風”がある。
それが『OL官能日記 あァ!私の中で』という作品の、
ひそやかな魅力なのである。

カルメンマキマキ&OZ 私は風


小沼勝の『OL官能日記 あァ!私の中で』において、
カルメン・マキの「私は風」が選ばれたのは、決してBGMとしてなんかじゃない。
情感を補足するための音楽でも、場面を盛り上げるための挿入歌でもない。
それは、映画の内部に流し込まれた運動エネルギーであり、
70年代という時代が前へ進もうとするときに鳴っていた、生身の推進力そのものの象徴だ。それだけでも、この映画は価値をもっている。

四畳半の安アパートや薄暗い室内、生活の延長としての性を淡々と映し出す映画に、性は日常の中にあるが、同時に猥雑で、どこか人目を避けるものとして描かれる。その閉じた空間に、外部の空気が侵入してくる。それが「私は風」であり、この曲が持つ推進力は、快楽や高揚ではなく、移動に近い。まさに風だ。
ハードロックの肉体的な重さと、プログレッシブ・ロック的な時間感覚が交差し、
聴き手をその場に留めない。走っているのに、行き先は示されない。
ただ「生き切ろうとする力」だけが、前へ前へと身体を押し出してくるようだ。

当時の日本のロック・シーンにおいても、この曲は異質だったのではと思う。
政治的スローガンでも、恋愛の告白でもなく、物語を拒否し、ただ「私は風」とだけ宣言する主体。それは状態の宣言であり、捕まえられず、所有されず、定義されない自己のあり方を真っ直ぐに歌うカルメン・マキの姿がある。
「私は風」は意味を過剰に孕んだ異物として、映画を密室から外へと引き裂くのだ。映画を支えるどころか、映画を相対化し、「ここではないどこか」を、確かに感じさせてしまう音楽。それは70年代という時代が持っていた、
自由さと未整理のままのエネルギーの残響だ。

カルメン・マキのデビューが寺山修司の「時には母のない子のように」であったことが全てを物語っている。時代の申し子として、運命に飲み込まれるように、そこからジャニス・ジョップリンのごとく、ロックの荒波の世界へと入ってゆく。錚々たるミュージシャンや、作詞家たちとかかわりあいながらも、完全に日本のロック史の裏街道を彩ってきたシンガーであり、今なお現役で活動を続けている重鎮である。