当たってこすって。冷たい沈黙の向こうに
よさこい節のフレーズにも入っている、高知のはりまや橋で
ひとりの少年が行き交う車を見定め、身体を張ろうとしている。
ドライブレコーダー搭載の自動車が当たり前の現代社会に
かつては当たり屋なんていうベタな稼業が横行していたのだと
いまの若い人たちは知らないかもしれない。
いうなれば、詐欺である。
いちゃもんをつけ、カネをせびる。
かつて、反社なひとたちがよくやっていた手口だが
それを家族をあげてやっていたという実話を映画化した作品で、
大島作品の中でもぼくが好きな一本『少年』である。
『少年』は、ATG1000万円映画の制約下で撮影された。
予算も、セットも、豪華な出演者も揃わないなかで、
スタッフ・キャストは最小限、大島組の小山明子、渡辺文雄だけにとどめた。
だが、この制約こそが大島の情熱を、創造力を解き放つ原動力となってゆく。
大島はむしろその不自由を逆手に取り、全国縦断ロケへ打って出、
いうなれば逃亡のロードムービーを展開する。
スタジオ撮影など一切不要、むしろ邪魔だと言わんばかりに、
彼は現実の風景へと体当たりし、その空気を刻印した。
最後は日本の最北端、稚内の地を踏む一家。
吹雪にまぎれ、灰色の海沿いを歩き、油に濡れた国道に足跡を刻み、
その道々でカメラを回す。
セットが作れないのなら、自然がすべての装置になるのだと
その強靭な意志が、この映画の鋭利な輪郭を形づくった。
こうして映画完成後には、大島と小山を始め、
創造社スタッフたちが直々全国の映画館に上映を乞うといった
まさに自家作業でもってキャンペーンを展開したのだった。
こうした現実への降下運動こそは、
大島渚をATGの内部で、特異な位置に押し上げたといえる。
同時代、ATGを代表する作家には実相寺昭雄がいたが
実相寺はATGを“観念の実験場”と捉え、幾何学的な構図や抽象空間、
仏教的象徴を用いて、人間の内面を形而上学の迷宮へと誘う映像詩を構築した。
『無常』『曼陀羅』などに見られる、空間そのものを思考の場に変えるスタイルは、
ATGの“観念的前衛”の象徴と言っていいだろう。
だが『少年』は違った。
この観念的ATGの美学とは真逆を向いているのだ。
大島は観念へと上昇するのではなく、戦後民主主義への断罪を込めて、
むしろ世界の最下層、社会の縫い目、現実の傷口へと降りていく。
実相寺が「考える映画」を撮ったなら、大島は「直視を強いる映画」を撮った。
実相寺が“空間”を語らせたなら、大島は“風景”の冷たさに臨場感を与え
観客の皮膚に直接押し当てる手に打って出た。
ATGが許した“既成概念からの解放”という条件を、
実相寺は観念の高さで、大島は現実の深さで遂行したのだ。
両者は同じATGという温室で育ちながら、まったく異なる方向の革命家だった。
これがいわば大島スタイルの本質なのだ。
その大島の“現実への挑戦”が、最も鮮烈に凝縮されているのが、
少年役・阿部哲夫の存在だろう。
彼は俳優ではない。
孤児院で育ち、演技経験もほとんどない素人だった。
大島ははなから彼に演技など求めはしない。
むしろ、“この世界に居場所のないまなざし”そのものを
スクリーンに刻みつけることを期待する。
少年の沈黙は、しかるに、演技ではなく生そのものの刻印である。
ひとり車中でパンをむさぼる姿、
あるいは買い与えられる帽子や時計への異様なまでの固執、
その視線は、本能そのものがにじみ出す。
彼がカメラに向ける視線には、戸惑い、恐れ、諦念、
そのすべてが“反応”として現れてしまう。
そこに俳優が演じる「社会的弱者」ではなく、
実際に社会からはじかれてきた子どもの“存在そのもの”を提示すること。
不条理な身から逃れるために、ひとり列車に乗り込み
日本海の荒波の前で寝そべり打ち震える少年のショットをみよ。
そこから死を選ばず、再び現実に戻ってゆく姿に、決意が滲むのだ。
それゆえ観念映画の範疇には収まりきらない、
危ういほどのリアリズムとなって画面に緊張を走らせる。
雪のなかで、幼い弟を前に
事故で脱ぎ落とした少女の長靴をそっと持ち帰り、
宇宙人の高みになぞらえ作った雪だるまを前に供え
不条理さを目一杯に滲ませながら、すべてを破壊する少年の思い。
ここに大島渚の“見せてはいけないものを見せる”という強い意志がのぞく。
実相寺が世界を象徴化して描いたとき、
大島は世界の生々しさそのものを、ごまかしなく突きつけようとした。
『少年』では、貧困も、家父長制の暴力も、国家の冷酷さも、
隠しようがない形で露出しているのをみても明らかである。
大島はそれを覆い隠す寓意や比喩に頼ったりはしない。
観念化した瞬間に、それは“別の風景”になってしまうのを知っているからであり、
だからこそ大島は、雪の白さ、冷たさに無言のメッセージを込めたにちがいない。
この現実の寒さだけが、観念へ逃れる余地を凍らせることができるのだと。
この映画に流れるナレーションにも、その冷たさを補強している。
しかもそれは誰の声でもない少年の声で、淡々と事実を述べる。
感情もなく、慰めもない。
その声は彼の痛みに、救いを差し伸べる手を求めたりはしない。
少年の人生は“事実”として語られるが、“物語”としては語られない。
ここに、映画が内包する無情の核心がのぞく。
ATG映画は、一般に“前衛”や“観念”という言葉で語られがちだが
『少年』はその中心にありながら、
ATGの印象を大きく裏切る“現実の映画”として美しさを保っている。
それは観念の美ではなく、裸の風景と裸の人間をそのまま提示することだと。
この特異さはATG史の中でも際立っていると思う。
なぜなら、ATGの他の主要作家、
実相寺、寺山修司、吉田喜重たちが構築したのは、
どこかしら“観念のための亜空間”だったからだ。
だが大島は、その空間を徹底して拒んだ。
“観念の高さ”に登るのではなく、ATGという実験場だからこそ
あえて“現実の深み”へ潜る道を選んだのである。
『少年』がロードムービーであることにも、この“現実の深み”に基づく姿勢だ。
映画は移動する。
北海道の雪原へ、山陰の曇天へ、都市の陰影へ。
だが、移動はかならずしも解放を意味しない。
少年は旅を続けても、人生はどこにも辿り着きはしない。
不毛な逃亡だ。
残酷ささえ、冷徹に見つめなければならない。
列車が前へ進めば進むほど、彼の孤独の輪郭がはっきりしていくのだ。
これは実相寺の映画に見られる“観念の旅”とは違う。
逃げ続けるしかない者の生々しい“逃避の旅”である。
世界が美しいから旅をするのではない。
世界が冷たいから旅を続けるしかないのだ。
スタジオでは絶対に生まれない風景。
俳優では成立しない孤独。
観念ではなく現実が中心にあるカメラ。
そして、雪の白が覆い隠す罪の痕跡と、白い静寂の中で語られる他者の声。
それらすべてが重なり合って、『少年』は生まれた。
『少年』は、ATG映画史の中でひとつの臨界点に達している。
観念的前衛の潮流と距離を置きながらも、
その核心には“日本映画が挑むべき革新”をしっかりと据えているからだが、
観念を拒否し、現実を直視し、社会の最下層を白日のもとに晒すこと、
これはATGの理念のもうひとつの極北を示すのに成功している。
実相寺の観念の迷宮が輝くなら、
大島の粗暴の寒さもまた、同じほどの強度で輝く。
大島自身『あの撮影は役者人生の中で
一番思い出に残る日々』と言っていたほどだ。
雪が降り積もる風景の中でも、少年は泣きはしない。
泣きたくても泣けないのだ。
大人になることは感情を抑えることだと理解しているかのように。
その沈黙こそが、映画の中に刻まれた現実そのものとして
雪の白さ、重み、世界の音をひとつずつかき消していくのだ。
国道を吹き抜ける車のざわめきも、列車の通る響きも、
街の雑踏さえも消えた冷たい沈黙の余韻がすべてを物語る。
この余韻のなかで育まれた『少年』に観念的な美は不要である。
白い暴力そのものが息を潜めているスクリーンの使命は
“語ってしまってはならない現実がある”というメッセージを伝えることなのだ。
The Boy With The Gun · David Sylvian
大島が描いた少年の世界は冷酷だが、その冷酷さを中和する権利は、映画にも観客にもない。それに対しデヴィッド・シルヴィアンが、コンセプチュアルなアルバム「Secrets Of The Beehive」のなかに、珍しくダークな寓話的世界をもちこんだアコースチックでジャッジーなナンバー「The Boy With The Gun」を贈ってみよう。思いを復讐にかえ、銃を握る少年のことが歌われている。ベクトルは、忍耐と復讐という相違のなかで、過酷な現実から、一歩踏み出そうとしているという点での地点では、重なりを見せる。少年が握る銃は正義ではなく、言葉を奪われた者に残された、歪んだ発語の器官としての暗喩であり、大島の映画が引き金の“前”で終わるとするなら、この曲はその“後”の可能性をほのめかしている。いずれにせよ、どちらも救いがない。ただ、世界が人をそこへ追い込む事実だけを、冷たく保持する。その冷却こそが、両者の倫理であるのだ。












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