猪熊弦一郎現代美術館のあとに

猪熊源一郎現代美術館
猪熊源一郎現代美術館のあとに

猫に手を引かれ


美術館は心の病院

猪熊弦一郎

美術は楽しい、という謳い文句とは裏腹に
現代美術という少々おっかない威厳のようなものの前に
それだけで身構えてしまう人もいるなかで、
ぼくは、長年その呪縛と戯れながらも
楽しみ、親しみをもちつつも、どこかで距離を保ってきた。
その点、デザインという共通の認識に、脅かされる恐怖はない。
つまり、日常の延長にあるもの。
むしろ、クールで示唆に飛んださりげなさにおいて、
日常にいち早く回帰させてくれることが多い。

三越デパートの包装ラッピングといわれ、すぐに思い浮かべられる人なら
買い物好きか、三越マニアだろうが、
そのデザインをみれば、ほとんどの人が三越よね、
とすぐさま記憶をすりあわせることになるのかもしれない。
あるいは、上野駅の中央改札の正面上にある壁画を描いた人。
かくいう、ぼくはそういうタイプで、
長年、そうした認識をもっていたとはいえ
猪熊弦一郎の芸術にまでは結びついてはいなかった。

改めて考えてみよう。
そもそも猪熊弦一郎とは何者か?
そんなことからはじめなきゃならないのだが、
そこは絵画好き、あるいはデザインに携わっている人間としては
少々、お恥ずかしいのかもしれないが、
もっとも、近年、猫好きが高じて、その縁で
すでに猪熊弦一郎には辿り着いていたのであるが
そこはあくまでも関心の域を出なかった。

そんなぼくが、とある旅の流れで、
丸亀市の猪熊弦一郎現代美術館に足を運んだ。
この美術館がまた、なんとも素敵な空間で、
その画業とともに、猪熊弦一郎という、
ある種、日本の大家のひとりである画家への思いを
さらに深く募らせる貴重な時間になった。
まずは館内の常設「猪熊弦一郎展 立体の遊び」を鑑賞する。
静かに広がる空間、その空間に溶け込むようにして存在する
猪熊弦一郎の親しげな作品たち。
そこには、絵画、版画、デッサン、立体彫刻、オブジェ、コラージュなど
多岐に渡った表現の形態のアウトプットに、
公共空間の壁画、ステンドグラス、モザイク、緞帳から、
椅子、テーブルといったインテリア、
そして出版物などの表紙絵、挿絵、包装紙、ポスターなどが
館内に展示されており、その偉大な画業に
改めて触れ、新鮮な思いを共有できた。

そこに三越のラッピングデザイン「華ひらく」があった。
ちなみに、このデザインには蘊蓄があって、
デザインはもちろん、猪熊だが、文字はあの「アンパンマン」で知られる
やなせたかしのものだというのは知らなかった。
やなせたかし自身が、まだ三越の宣伝部のデザイナーをしていた時期、
直々にデザインを取りにやってきたのが、やなせだったのだという。
そこからともに四国出身という縁もあって、交流を深めたのだという。
なんとも、不思議な縁である。
それらの縁ひとつとっても、どこか猫同士あるいは人間との
脈略のない縁のように、どこか自由な感じがして面白い。
それが、この美術館の持つ独特の魅力であり、
猪熊弦一郎自身が長い間感じていたであろう
「自由な自己表現」の息吹そのものといえるのかもしれない。

ぼくが、猪熊弦一郎という画家の名を耳にしたとき、
どこか懐かしさを感じていたのも、偶然だ。
彼が描いた抽象的な風景や人物画、その中に流れる穏やかな色彩が、
どこか自分に馴染むように感じられたのはそのせいだ。
そこには若き猪熊を刺激し、従事したフランス近代絵画の巨匠マティスをはじめ、
ニューヨークにわたり、マーク・ロスコやジャスパー・ジョーンズなど
現代美術のアーティストたちと深めた交流の息吹などを直に感じながら、
実際に彼の作品を目の前にしてみると、
その感覚は、予想以上に深く、鮮烈なものだった。
まさに、みずみずしいモダンアートの洗礼を改めて受け直した。

おもえば、美術館の入り口に掲げられた一枚の大きな落書き。
こちらがぼくのこころを大いにくすぐった。
ちなみに、この絵を巡ってのエピソードがまた面白い。
役所に、住民から心配の電話がたくさんかかってきたのだという。
「壁に落書きがされてます!」
まさに、猪熊弦一郎、してやったりである。
確かに、現代美術というよりはストリートアート(落書き)である。
そもそもが、猫きっかけで近づいた猪熊のもつ、
あのどこか生粋の少年心にぐっと心掴まれるそんなアウラがある。
1991年にオープンしたこの美術館は、市の協力のもと、
猪熊弦一郎のもてるすべてを内包し、
外、とりわけ市民に開かれた場所であるのはいうまでもないが、
この建築そのものが、猪熊がまだ在名中に建てられたものであり、
画家と建築家とが一体で、意見を反映しながら完成した場であることが
この美術館のコンセプトを大いに支えているのだ。

これは、ニューヨーク近代美術館「MoMA」のリニューアルにも携わった
建築家谷口吉生によるものである。
様式はモダン、近代的であり、まさに現代美術の施設に相応しいのだが
一歩足を踏み入れると、
まず最初に目に飛び込んでくるのは、彼の描く「猫」の姿。
猫に手を引かれたような不思議な感覚。
それは彼が実際に愛した猫たちとともに過ごした時間が、
作品の中に息づいていることを感じさせてくれる。
猫という生き物は、まさに彼の芸術の精神そのもの、
つまりは自由で、直感的で、
しかしその姿勢にどこか深い思索が込められている。
猪熊の作品の中に現れる猫たちが、彼の内面の豊かさを
静かに物語っているような気がする。

猪熊弦一郎の作品に共通しているのは、
彼が「自由な自己表現」を追い求めたということに帰結する。
作品のすべてに、彼自身の深い思索と独自の感覚が溶け込んでいるのだが
それらは決して堅苦しいものではなく、
むしろ猫のように気まぐれで自由なものである。
彼が描いた風景や人物、さらには自然の形態にさえ、
何かしらの軽やかな遊び心が感じられるのがその証拠である。

例えば、抽象的な山や海の形は、
決して具象的に表現された風景ではない。
彼はそれらの自然の要素を単なる模写にとどまらせることなく、
色彩や形態を変容させ、見る者に新たな視点を提供する。
その背後に流れるのは、彼自身の心の内側にある
「自然への愛」と「自己表現の欲求」。
まるで猫がふと足元に寄り添ってきて、
その温もりを感じさせるように、それら作品はじわじわと心に響いてくる。

美術館内を歩きながら、僕はひとつひとつの作品に魅了され、
猪熊が猫のように自然体で、かつ自由な姿勢を貫いたことを
強く感じることができた。
まさに「無理なく、自然に、自分を表現すること」こそが、
彼にとっての芸術の本質であり、芸術とは本来、
こうであるべきだというメッセージのように思えたと告白しておく。

猪熊弦一郎の作品は、まるで猫の足音が響くような軽やかな印象をまとい
特に彼の線の使い方や色の配置には、
無駄のない美しさと、独自のリズムが感じられる。
これこそが、猪熊が目指した「自由で純粋な芸術」そのものであり、
彼がその表現にどれだけの情熱を注ぎ込んだかが
伝わってくる手作り感の実態なのだと。
そして、こうして、猪熊弦一郎のことを深く考えれば考えるほどに
うそ、偽りのないアーティストのもつ人間性に触れることになる。

猫の動きが時にゆっくりと、時に速やかに変わるように、
猪熊のアートもまた、変化に富み、
ダイナミックでありながらも穏やかな調和を保ち、
作品の中に潜むエネルギーは、まるで猫が静かに歩くように、
見る者の心に柔らかく、しかし確実に影響を与える力を有しているのだった。
その力強さを感じると、猪熊が自らの内面と向き合いながら、
自由な自己表現を追い求めてきた過程が、少しだけ理解できたような気がした。

猪熊弦一郎は、猫が持つ「自由さ」や「無邪気さ」を、
自らの芸術に取り入れたかったのだろうか。
猫というのは、自然に生きる術を知っており、
その存在自体が美しさを体現している動物だ。
猪熊もまた、自然とともに生きること、
そして自分自身を表現することにおいて、
猫のような自由を感じていたにちがいない。

僕が猪熊弦一郎の美術館で感じたのは、まさに「自由と愛」そのものである。
猫に手を引かれ、彼の作品に触れ、
僕は不思議と安心感と新鮮な刺激を感じる幸福。
猪熊が描いたのは、自由でありながらも内面的な強さを持った表現であり、
それは、観る者に何かを感じさせ、深い思索を促す喚起力を持っているのだ。

猪熊弦一郎の作品は、まるで猫のようにやってきて
いつ間にか姿を消す、そんな感覚を纏っている。
そして柔らかに、観る者の心に届いた情景がアートとして残されるのだ。
難解さや深遠さとは無縁の自然体の想像力。
そしてその優れた芸術家としての「核」に触れたとき、
僕は彼の生き方や作品に込めた思いに深く共感し、
また、改めてアートの力を感じることができた。

猪熊弦一郎の美術館に足を運んだその瞬間から、
僕の心は少し軽やかに、さらに自由になれた気がする。
館内に掲げられたコンセプト、「美術館は心の病院」という言葉に嘘はない。
これほどに癒される美術館もない。
四国の玄関口に、香川と言う風土に、似つかわしい
風のようなさわやかさと親しみやすい現代性、
それは、まるで猫に手を引かれて、
それでいて、追えば追うほどに離れてゆく不可思議な魅力と共にあり
ひとときの静かな散歩に出かけたような心地よさと、
彼の芸術がもたらしてくれる驚きが併せ持った贈り物だった。

坂本美雨:The Never Ending Story

すでに猪熊弦一郎現代美術館でも、おお雨 (おおはた雄一+坂本美雨) のイベントなどで関わりをもっているアーティスト、ここは大の猫好きの坂本美雨に来てもらうことにしよう。美雨さんの愛猫「サバ美」も、すでに虹の橋を渡ったそうだが、猫という生き物は、まさに「The Never Ending Story」を運んできてくれる、そんな存在であるのはいうまでもない。われら猫好きは、各々、かけがえないドラマや思いをもっている。幸せな共存関係。そこにまた、こうして美術、そして音楽が加わると、さらに豊かな詩情が膨らんでゆく。