序
2020年春に始まった、あの物騒なパンデミック騒動から、はやいもので、5年もの月日が流れた。世間はすっかり元の社会にもどったかのようだが、その傷は結構根深いところで、人の人生まで変えてしまったようにも思える。けれど、だれもそのことを誠実に検証しようとはしない。そればかりか、いまだパンデミックの亡霊に怯える人々もいる。また、それよって、ビジネスは多様化し、選別化され、水面化では、着実に、富めるものはさらに富み、貧しいものはさらに貧しくなっていく構造が加速されている気がしている。まさに、これまでの資本主義社会そのものが問われる時代に突入している。
とはいえ、多くの人は、ただ嵐が過ぎ去っただけ、そんな風にしかとらえていないのかもしれない。近い将来、また同じような事態になったとき、同じように社会が混乱し、抗えない圧力の前に、われわれの自由が権力や体制に封じ込まれ、閉塞しないように、自分で自分を守る術を、普段から身につけておくしかない、というのが僕個人の正直な思いだ。
コロナ以後、社会は大きく変化した。人間関係も大いに変化し、ますます孤立を深めた部分もある。が、逆に鮮明になり、見えてきたものも多い。僕自身、誰よりも先に、コロナの洗礼を浴び、その騒動を体験し生死さえ彷徨う危機にあった人間として、そこから運良く回復すると同時に、あの病的なまでのコロナ禍によって、分断されてしまったこの社会を前に、失われた時間の埋め合わせする、というよりは、あらたに自分のすすむべき方向性をさぐりながら、結局は自分の内なる声に従うしかないという思いを強く学んだだけなのかもしれない。
当時は、外に出るのも、人に会うことさえ億劫だった。何もかもが胡散臭く、欺瞞に思えた。むしろコロナを恐れることはなかったが、あふれる同調圧力に抑えこまれた不穏な社会の空気を吸うぐらいなら、家でてっとりばやく、自分自身のできること、好きなことをやっているほうがいいと思えた。それは内観の日々といっていい。必然的に、ライブや美術館、映画館などに足を運ばなくなってもいたが、そこからようやく自分を取り戻し、失われた時間を求めて、日々、意識を更新し始めることができたのは、ラッキーだった。これはその記録というか、ひとつの検証であり、そうした思いの一部になっているはずだ。
絵道楽
絵を描くことは実に楽しい時間なのだが、
それと同時に、他人が描いた絵を見るのも、
これまた楽しいものである。
人間の個性とはつくづく、その人にしか宿らないことを教えられる。
絵は言葉とは違うものの、それでも人間性が如実に現れる。
アートとひとことでいっても、落書きもあれば、ファインアートもある。
また、コテコテの現代美術やコンセプチュアルアートまで、実に多種多様だ。
それこそ名の知られた画家の作品はいざしらず、
近頃では、素人画家や日曜アーティストにとって、
表現の場はいくらでもあるし、そのメディアもさまざまである。
デジタルを使えば、瞬間的なアートがその場で生成されてしまう時代だ。
そんなこともあって、アートは昔に比べれば随分身近なものになっている。
が、こうしてオンラインだけで絵に触れていると、
どうしてもバーチャルな世界での感性ばかりがふくらんでいく。
それはある種の可能性と危険を同時に孕む。
だからこそ、人が手で描いたものをその目で見る体験は貴重であり、新鮮だ。
時空を越え、感性を超え、その世界に見を浸す快楽は、
もはや贅沢な趣味、そんな時代である。
実際、美術展に足をはこんでみると、
場はそれなりに人であふれかえり、目の前の絵をゆっくり鑑賞するには、
少々窮屈さえ感じるほどである。
かつては、知る人ぞ知る、そんな絵画鑑賞という贅沢な嗜みが、
ごく一部の人がその狭い世界をひっそりと楽しむ場でもあったが
そんな時代の終わりを告げているのだと感知する。
そんなアートを、ここは一つ、表現者としての立場を離れ、
それこそ、初めて絵に対峙するかのような、ピュアな視点を忘れることなく、
絵に対する自分の言葉を綴ってみようと思う。
自分が生み出すものが、日々、こうした他者の表現や感性の影響を
無意識下に受けて、それを滋養としているのだということに
あらためて気付かされるのだ。
ぼくにとってのアートは、啓発である同時に、
日常の所作にすでに組み込まれている。
つまり、カフェでお茶を飲むように、
僕にとって、絵は心を満たす行為そのものなのだ。
Oil On Canvas · Japan
ジャパンの実質上のラストアルバムとなった、ライブ盤『Oil On Canvas』のジャケットを飾るのはフランク・アウアーバッハ(英語読みではアウアバーク)の絵だ。なんとも力強いこの絵。僕はこのジャケットの絵を通してアウアーバッハを知ることになったのだが、当時は、いまいちジャパンの音楽との結びつきがピンとこなかったという印象があった。ドイツ・ベルリン生まれでユダヤ人であったアウアーバッハは、ナチスの迫害を逃れて1939年に英国に渡り、両親は強制収容所で命を落とすという、そんな経歴からも、その絵は、ドイツ表現主義の系譜に連なる「実在への焦燥感」を強く滲ませている。アウアーバッハといえば、シーレ好きのボウイのお気に入りでもあり、おそらく、その影響で、シルヴィアンのアンテナにもひっかっかったんじゃないだろうか、とも推測するが、真相はしらない。とはいえ、ジャパン時代からアートへの造詣を深め、一時は音楽と並行して、精力的にアート活動にもチャレンジしていたシルヴィアンの眼にとまったのが、このアウアーバッハとは、今思うとなかなか渋いチョイスである。アウアーバッハという人は、生涯ロンドンを離れず、英国の画家として、ルシアン・フロイドやフランシス・ベーコンとともに、「ロンドン派」の一角を担った画家であり、当時のシルヴィアン自身が、ポップ・ミュージックの領域の幻想から離れようとする内なる思いと、このアウアーバッハの絵のタッチに重ねあわせてみると、なかなか興味深いものがある。つまり、「生きられた痕跡」を残した画家アウアーバッハ、ポップミュージックの幻想からの脱却へと向かうシルヴァインの強い意志のようなもの。絵を通して感じるのは、そんな共感だ。
特集:アートでぶらり、美術鑑賞特集
- 僕だけの大竹伸朗展・・・『大竹伸朗展』のあとに
- 宇野亞喜良、いまだキラリ・・・『宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO』のあとに
- その四角の外側、色彩と煙の向こうににあるもの・・・『デイヴィッド・ホックニー展』のあとに
- フォロンと旅するノーマンズ・ランド・・・ジャン=ミッシェル・フォロン『空想旅行案内人』展のあとに
- 絵良し、色良し、ユーモア良し、これぞ国芳国宝級・・・『歌川国芳展 ―奇才絵師の魔力』のあとに
- デ・キリコ、迷宮の神話学・・・ジョルジュ・デ・キリコ展『Metaphysical Journey』のあとに
- ARPからARCへ。ゾフィーとジャン、共鳴の芸術・・・『ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ』展のあとに
- 「あ」の人を見よ・・・「宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」のあとに
- 恒例の彼方からの啓示・・・ヒルマ・アフ・クリント『The Beyond』展のあとに
- 眼差しは一つ。ルドン、闇と光の変遷物語・・・「PARALLEL MODE オディロン・ルドン ―光の夢、影の輝き」のあとに
- 永遠の異端を求めて・・・『異端の奇才 ビアズリー展』のあとに
- 猫に手を引かれて・・・猪熊弦一郎美術館を訪ねて
- うろんなぼくが違和感と共に暮らす術を学ぶまで・・・『エドワード・ゴーリーを巡る旅』のあとに
- チャーミングなフリークスの肖像に捧ぐ・・・東京都現代美術館『坂本龍一|音を視る 時を聴く』のあとに
- 祈りと色彩の前に。野獣死すべし・・・『マティス 自由なフォルム』のあとに
- 歴史的修復の詩学としてのアンゼルム・キーファー・・・「アンゼルム・キーファー:ソラリス」のあとに
- デヴィッド・リンチを偲ぶ・・・『デヴィッド・リンチ:アートライフ』より
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