阪本順治『顔』をめぐって

顔 2000 阪本順治
顔 2000 阪本順治

どこまでも逃げ、ましょうの女

トップホースにしろ、優れた芸道者にしろ、
むろん、当人のセンス、才能もあってしかるべきものだが、
どこか裏付けできる“筋”というものがあって
つまり、親(師匠)から受け継いだ純然たる血というやつの
あらかじめ下地部分があるからこその威光(ただの七光りもあるが)、
そこは個人の努力だけでは如何ともしがたいものがあるように思える。
良血とは、何人にとっても敵わぬ最大の武器たりうるのだ。
言ってしまえば、所詮カエルの子はカエルなのであり、
醜いアヒルの子が突如として白鳥に、なんてことには、
まずなりえない気がするのだ。

お笑いのセンス、というのもまたしかり。
やっぱり、そういうことなのかもしれないと思うことがある。
藤山直美をみていると、思わず、そう納得させられる。
いわずもがな、松竹の喜劇王藤山寛美の血筋を引く、
立派な喜劇役者のサラブレッドであるからだ。
さほど多くの映画に出ているわけではない元は松竹の舞台女優だが
阪本順治の映画と相性がよく、彼女の出演作には何かと魅せられるものがある。
この2000年『顔』で、文字通りはじめて顔合わせをしたことで
数々の映画賞を受賞しているは偶然ではないだろう。
『顔』での彼女のキャスティングはズバリ正解だ。
ここでは、阪本組たる豪華な俳優陣、
トヨエツを始め、岸部一徳、大楠道代など実力派に混じって
堂々彼女なしでは成立しないほどに眩しい個性が、
映画内に満ち満ちているからだ。

映画の下敷きには、時効成立間際で身を拘束された
かの福田和子事件がある。
福田和子という一人の犯罪逃亡者をめぐって
これまで多くのドラマ化がなされ、様々な女優によって演じられてきた、
いわば、“そそる”モティーフであるのはいうまでもない。
人間の顔、とりわけ女の顔というものの変化そのものがすでに物語であり
“絵”になる、ということもあるだろう。
実際の福田和子像もまた、大胆不敵な逃亡者以前に、
男にとって、どこかファムファタルな存在ともいうべく、
言葉だけで語りえない魅力を持った人間であったのかもしれない。
彼女自身、単なる欲に支配されていた女というよりは
複雑な家庭環境の下に、服役中に強姦被害をも体験するなど、
運命に弄ばれし女としての闇を生きた。
以後、ドロドロとした生臭い人間関係の因果を重ね、
殺人犯としての逃避行を連ねてゆくのだが
最後の最後で運命の前に諦観するより他なく
そんなドラマティックな人生を踊らされた人物だったのかもしれない。

共通項は、したたかでありながらもその人間味が原動力となって
良きにつけ悪しきにつけ、みずからの人生を切り開いてゆかんとする女。
弱さと強さのアンビバレントな葛藤が物語の推進力である。
藤山直美が演じる正子のほうは、ヒロインのキャラが手伝ってか、
どこか喜劇色の方が色濃く反映されている。
当初、ひきこもりの正子が不意なことで仲の悪かった妹を殺したのを契機に、
そこから逃亡を余儀なくされ、
福田和子ばりに各地を転々行脚にでるという話であると同時に
ひとりの女としての変遷ロードムービーとして見ることができる。

職を変え、場を変え、レイプされ、いろいろ憂き目にあいながらも
生きるたくましさを身につけてゆく女を好演している。
逃亡してからは、かつてのひきこもり時の弱き姿はない。
正子は「7つの顔を持つ女」と称された福田和子とは違い、
実質的な整形に手を出すことなく、
実力と本能のみでその“顔”を変えてゆく女である。
その意味では、東北の閉鎖的な家に嫁いだ女のたくましさを描いた
今村昌平『赤い殺意』での貞子にどこか似ている。

たくましい女というのは、たとえ容姿にめぐまれなくとも
身を切る過酷さの渦中であろうとも、
生き抜く術を本能的に兼ね備えているものである。
不器用なまでに生き方の下手な正子ではあるが、
どこか人の気を惹くような術をもっている。
逃亡の車中、佐藤浩市扮する乗客に
「自転車で転んで打った」マスク下の言い訳に
その後「身体も腫れてしまって」と
速攻気の利いたシャレを付け加えた正子。
あるいは見知らぬ土地へ降り立ち、唐突に自殺を試みるも
ロープの紐が切れてあっけなくズドン、
失敗してガレージ内で半狂乱になる正子がなんとも可愛い。
そのほか、冒頭クリーニング屋の二階で
「サカイ引越センター」のCMメロを口ずさみながら仕事に精を出すのどかさ。
なんども転倒を重ねながら、ふらふらの自転車に乗って逃亡する必死さ。
客のカラオケでタンバリン片手に真の悪いリズムを刻むノリノリの無邪気さ。
海岸でウミガメの産卵かといわれながら「泳ぎ」の練習をする可笑しさ。
好意を持っている男に「生まれ変わったら一緒になってください」
などと反直球的ロマンを吐き別れを告げるウブさ。
レイプシーンでは必死に大暴れし抵抗するアンビバレントなまでの哀しさ・・・
それらは全て、罪から逃れたい一心と同時に
彼女が纏っている生きるバイタリティとのセットで描かれてゆく。

逃げることで、彼女は自らの人生を発見してゆくとも言える。
あえて孤独の殻から飛び出した彼女の運命は
捕まることを恐れることで彼女のアイデンティティさえをゆり動かし
意に反してまわりの人間さえをも巻き込んでゆく。
そうでなければ、好きな男に告白することもなかったろうし
まったく泳げないのに、海を泳ぎ渡ろうなどという
無謀な試みをすることもなかったろう。

『顔』は、そんな正子がいつしか愛おしくなってくる映画である。
彼女の生き様(顔)に突き動かされるであろう人間たちは、
いみじくも、彼女の逃亡生活がはじまったところで
神戸の震災に見舞われた人々のような、
すべてを失い、生きる希望さえ見いだせない人々ばかりだ。
生きてさえいればなんとかなる。
そう、なんとかなるという、何の根拠もない呪文のような自信こそが
救いになるのだと言わんばかりである。
ラストでのひとり浮き輪をしながら海を泳ぎきろうとする正子のロングショット。
そこからもがきながら必死に前へと進もうとする彼女のアップで話は終わる。
当然、彼女の人生は終わらない、続くのだ。
『顔』は福田和子の件とはちがい、フィクションであるがゆえに
われわれに生きる真の勇気を与え続けてくれるだろう、
その笑いとペーソスともに。

ミーのカー : ゆらゆら帝国

逃走者だけが醸す、あの不安定で狂気じみたテンションになぜか惹かれる。ゆらゆら帝国の中でも大好きなナンバー「ミーのカー」。不穏な気配のスローテンポのナンバーだけど、何時間でもずっと聞いてられる、実にくせになりそうな毒にはまる。逃走の狂気がじわじわにじむロングバージョンをあえて聞いてみよう。「もれたオイルのテンテン辿って家がバレないように。捨てた缶々拾って家がバレないように。抜けた髪の毛辿って家がバレないように。変えた名前を探して家がバレないように・・・」すごいセンスの歌詞だ。逃走者の気分ってこんなもんなのかな? なんとなくわかる。うん、わかるんだよな。どこまでも逃げろ、全ての逃走者どもよ!

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