『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』を観て

ムーンエイジデイドリーム

内観する存在物としてのボウイ

デヴィッド・ボウイ。あの巨大な星が視界から消えてブラックスターとなりて、はや6年の歳月が流れている、この事実の前に、この頃なんとなく無頓着になりつつある。というのも、あのボウイが今仮に生きていようがいまいが、その功績の眩しさが、少なくとも日常においては、未来永劫輝きを失うことなどなく存在し、その音楽を繰り返し再生し、耳にする機会がなくなることがないのだから。どうやら、太陽や月、その他惑星に紛れ、ブラックスターはひときわ眩しく、この地球のまわりをぐるぐると回り続けているのである。

そんなボウイの新たなドキュメンタリー映画『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』が公開され、話題に上っている。自分もまた、大回顧展「DAVID BOWIE is」以来、この目でその体感にあずかろうと、IMAXという最新の音響システムの元に、久しぶりに劇場空間へと足を運び、その感慨にひとりごちているところだが、正直なところ、実に「厄介な」映画であると告白せねばならない。もはや、否定、肯定するという次元を超え、否が応でも、ボウイという人間を、改めて考察する契機として捉え直すしかないのである。

難解というわけでもなく、かといって、単純すぎるというわけでもなく、未知なる貴重な映像を含む、時間軸を自在に飛び越えた写真、ライブドキュメント、PV、インタビュー、そして楽曲、それら過剰なまでに膨大なアーカイブをもとに、存分に調理し再構築された大作映像は、ボウイを心から愛するものたちにとって、楽しめぬ理由はなく、見応えは申し分ないものである。

「厄介だ」といったのは、これまで培ったボウイという巨大なモンスターへの思いが特別にアップデートされたというわけでもなく、かといって、新たなる発見や驚きがあったというほどのものでもなく、ただひたすらにその渺茫たる宇宙観に酔いしれる二時間強の体験であること、まさにドラッグのように脳内は刺激で満たされ至福に至る、ということ以上になにがあるのだろう? 

改めて冷静にスポットライトを当てるとしたら、果たしてデヴィッド・ボウイとは何者か? ということでしかない。あいも変わらぬ答えなき永遠のテーマに巡回してしまうことになってしまう。20世紀を代表するロックスター、そしてスーパースター。地球に落ちてきた男、あるいは変化し続けるスターマン、宇宙人。そんな使い古された言葉で語るには、あまりにも魅力的すぎて、宇宙のごとくその渺茫たるキャラクターを演じ続けた男にとって、言葉はあまりに無力なのだ。

とどのつまり、ボウイという人間は、ファッションや文化、思想、哲学、いろんな周囲の借り物の力をことごとく自分のものとして昇華させながら、常に「内観する自分としての存在物」であり続けた、ということに行き着くということなのである。

ジギーもアラジン・セインもシンホワイトデュークも、そして遺作ブラックスターでさえもまた、ボウイが自分が何者かであるという過程に現れた一つの形態にすぎない。若き日のボウイが、多大な影響を受けたという兄テリー・バーンスの重い呪縛を背負いながらも、一方で自身仏教徒にあこがれるほどに、精神世界とのバランス感覚を保ちながら、あるいはドラッグやロックンロールスターとしての虚無から脱却せんと原点回帰した時代をへて、つねに一線で時代を映す鏡として自らをさらけ出しながらも、変化を重ねていった必然を考えれば、まさに内観する人として「自身が何者であるか」をひたすら問い続けたことへの結果でしかない。そして、人並みに歳を重ね、大病をし、復活する晩年の流れの中で、イマンという伴侶をえて、レクシーという娘をさずかり、伝説のロックスターは、ひとりの家庭人として、最後は虚構の仮面を脱ぎ捨てた人間デヴィッド・ロバート・ジョーンズとして、その所業を安穏に終えたことによって、果てしのない魂の遍歴に終止符を打ったというのは、実に感慨深いことなのだ。

とはいえ、ボウイというアイコニックな存在についてまわるありとあらゆる言説、そして記憶は、これからも人々を魅了し続けるだろう。ボウイに魅了される人間にとっては、おのおの各自が自分だけのボウイ像を更新しながら、ときに神格化し、ときにファッションアイコンして、その豊かな物語を語り始めることになる。ボウイはすでに、全作品の版権をデヴィッドボウイ財団に委ね、その所有権を手放している。彼はもはや何も所有せず、過去にとらわれることなく、真の自由を手にし、その自由をわれわれファンに無尽蔵に提供するというチャンスを可能にした。その産物がまさにこのブレット・D・モーゲンによる『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』に凝縮されているといっていいだろう。

デヴィッド・ボウイの宇宙を訪れると、そこから離れ堅い思いと、一抹のさみしさを覚えぬわけがない、と人は改めて思うだろう。それには際限がなく、運命的に無限に繰り返されるのだが、これはひとつの演出であり、ドキュメンタリーと銘打った虚構にもかかわらず。もはや、存在しないはずのボウイの肉声が、われわれに語りかけ、その自由を自分のものとして捉え直し生きることを、あらゆる彼の創造物とともに訴えかけてくる。なのにわれわれは誰一人として、デヴィッド・ロバート・ジョーンズという生身の人間の内を知らない。生前日本という国を愛し、心の故郷として、京都という街におぼえた彼の孤独。やがて家族を形成し、安楽を得た人間ボウイ。そこには常に華やかなイメージを削ぎ落とした究極の姿がある。まさに禅の境地であるかのように。

そんなボウイに性懲りもなく、愛おしさを募らせながら、彼が重くまとい続けたデヴィッド・ボウイという衣装が、華やかに、毒々しく、音響と映像の洪水のなかで、一筋の真実を照らし出していくのをみる。そう、誰もボウイにはなれやしないのだと。ボウイ自身ですら、それは自身の内観によって照らし出された魂の抜け殻の数々なのだ、ということを告白だといっていい。しかし、その眩しさは、この世のからくりでは到底見通せるわけもないぐらいに生き生きとその姿を映し出してしまうのだ。

ゆえに、厄介なのだ。ボウイを知らないものがこの映画をみても、ボウイという内なる風景に出会うことなどないだろう。彼が戦ってきたイメージの世界以外には。そうして、ボウイを愛し好きになればなるほどに、そのジレンマを抱えながら、無数のデヴィッド・ボウイ像を自由に書き換えてゆく。もはやその作業を手放した本人の姿はどこにもないのだ。

デヴィッド・ボウイとは何者なのか? そう、もう一度経文のように繰り返してみよう。が、所詮答えはないのだ。なぜなら「内観する自分としての存在物」だったからである。もし、ボウイという「存在物」に触れたければ、まずはボウイが残した楽曲を、時系列そってじっくり味わいながら、彼の発する言葉の意味を考えてみるのがいいかもしれない。時間は無限だ。そして、その無限地獄は実に華やかだ。幸いにも、ボウイの音楽は、決して古びることはない。半世紀という年月が過ぎた今も、その軌跡は消して色褪せはしない。むしろ、華やかな現象として、何度もスポットライトを浴び直し、再発見されてゆくだろう。ボウイが背負ってきたものよりも、実にシンプルに美しい曲、あるいは素朴に訴えかけてくるロックンロールの熱情に身を置く快楽は、どこまでも続くのだ。

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