海パンの王様の夢のあとさき
なにかと思考をマヒさせるかのような夏の猛暑。
目に眩しい日差し
女のあけすけな素肌に、脂ぎる男たち。
その逆もあるかもしれない。
夏という季節は、恋の季節だとかなんだかんだ、
かんたんに片付けるが、人間を勘違いさせる空気に満ち満ちた、
罠がはりめぐらされた季節だともいえる。
そんな真夏に、サバービアのプール付きの家をめぐって、
世にも不思議な、というか、ちょっと恐ろしいような
勘違い男の非情の物語が提示されてゆく映画がある。
1968年のフランク・ペリーによる『泳ぐひと』の話である。
どこからともなく、主人公の男バート・ランカスター扮する中年男が
高級住宅街にある知り合いの家のプールに、海パン一丁で現れ
そこから帰路にあるプールを泳ぎ渡り、
自分の家にたどり着こうと唐突に宣言する。
そのルートを、妻の名前をとってを「ルシンダ河」と名付けるオメデタイ性格。
そんなヘンテコな感じの企画を実行してゆくなかで
その視線にやどった輝きそのものが、徐々に失われて、
にわかに暗雲が立ち込めてゆくのである。
つまりは、メッキが剥がれるというか、
男が抱える真実が、まるで日焼けした肌が
ボロボロとめくれるようにして、あばかれてゆく、そんな映画なのだ。
どうみてもまぶしい夏の話であるにもかかわらず、
堂々、夏の映画である、と断定出来ないところがあって
季節は、わずか数時間の間に、夏から秋へと移り変わっているのだ。
これをシュールといわずして、なんといえばいいのか?
最初は何が起きているのか、よくわからない。
実はそこがこの映画のミソだというのがわかってくる。
なにしろ、知人たちの家のプールを泳ぎ切って、
妻と娘のいる家へ帰ろうなんていう発想そのものが許されうる映画なのだから・・・
肝心の妻子に関しては「妻は元気だよ。娘たちはテニスをしている」
というだけで、実態はなにひとつ描かれはしない。
ただし、実情は、最後の最後で、なるほどね、というオチで締めくくられる。
ここにこの男の哀れみが漂うことになるという設定だ。
アメリカン・ニューシネマの一つにも数えられるほど
カテゴリー分類の難しい作品で、
いわば、再発見され、早すぎた傑作として
カルト的な評価を得ている作品として、見所、語りどころは多い。
とはいえ、なかなか解釈の仕方が難しい作品でもある。
要するに、ちょっとシニカルで、
斜めに見て、深読みして、はじめて内容が納得出来るそんなところがある。
まさに、観客を選び、試される映画と言えるかもしれない。
単純にいってしまえば、
勘違い男による、勘違いの化けの皮が一枚一枚剥がされてゆく、
そんな裸の王様ならぬ、海パンの王様の、
ある種、御伽話なのである。
ジョン・チーヴァーによる1964年の同名の短編小説が元になっているが、
どうやら、「アメリカ上流階級を皮肉った作品」ということらしい。
確かに主人公ネッドは、中年にしては体つきもよく、
元広告業者で、それなりの身分、境遇にあったものと推測される。
プール付きに家々に住むようなブルジョワたちとの絡みで、
かつて、それなりの暮らし、扱いを受けていた事はわかる。
しかし、話が進むに当たって、どんどん窮地にたたされてゆくではないか。
額面通りに受け取るならば、どうやら、無職で、無一文。
いったいこの男は何者で、何をしでかしたというのか?
謎解きのように、物語はミステリー要素を帯びはするが、
かといって、事件らしい事件が起きるわけでもない。
どうやら、この海パン一丁男の過去から現在において
周りから、相当に呆れられ、憤慨されている模様がみてとれるのだ。
実は、ネッドという男の意識のありように大いに問題があるのだ。
唐突に現れ、「一緒に泳ごう」と皆に誘いかけるが、
乗ってくるものはいない。
そこには明確なまでに、一線が引かれている。
しかし、男は簡単にはめげたりしない。
友人を訪ねても、その母親に
「息子が病気の時に見舞いにも来なかったくせに。もう二度と来ないで」と毛嫌いされる。
かつて、娘のベビーシッターをしていた若いジュリーには、
当時こそ、憧れの存在であったことを告白され、
それをネタにこれみよがしに調子にのって手を出そうとするが、
これまた先に目覚められて、案の定、振られてしまう。
ヌーディストのハローラン夫妻には、金の工面に予防線を張られる始末。
その途中で出会う、レモネード売りの少年には
水を張っていないプールで、少年に泳ぎ方を教えたりもする。
大規模なパーティの行われているプールサイドでは
自分のワゴンを見つけ、妻に売却されていたことを知り唖然とする。
また、かつての愛人だったシャーリーには、
以前の関係を前提に接するが、彼女の心は戻らず、足蹴にされてしまう。
出会う女たちには、なにかと軽薄な調子で声をかけたりするが
その脳天気ぶり、無節操ぶりが、なんとも痛々しく
この男の薄っぺらさを浮き彫りにするだけなのだ。
決して、悪人ではないのだが、あまりの自覚のなさ、
そのギャップを自分で理解できていない男というわけだ。
そうして、最後に向かった市民プールでは、
わずか50セントの入場料さえ出せない。
物乞いまでしてようやく入れたにもかかわらず、汚いモノ扱いで、
芋の子洗うようなプールをなんとか泳ぎ切ると、
彼を知るものたちに囲まれ、一斉に非難を浴びることになる。
男は、どうしてそんな卑しめを受けるのかわからぬまま、
その上にある我が家に向かって這々の体で逃げるように駆け上ってゆく。
で、そこで待ち受けていたものは・・・
まあ、はっきりいってしまえば、我に返る瞬間である。
妻も娘もいない廃墟と化した家である。
かつての郷愁が雨ざらしの無人のテニスコートに響き渡る。
ネッドの実情のすべてがここで無慈悲にさらされて
海パン一丁親父の悪夢はここで終わる。
なんという残酷な映画、幕切れだろうか・・・
つまり、ネッドという男は、自分で自分のことがよくわかっていないため、
永遠に勘違いし続けている男として、
だれに同情される瞬間もなく、哀れな姿を晒すのである。
そのことを自分の口からではなく、
周囲の人間たちの言葉や態度で少しずつ暴かれ、見せられてゆく映画が
この『泳ぐひと』なのである。
The Experience Of Swimming:Richard Barbieri
内省的に読み解けば『泳ぐひと』のプール、スイミングシーンは、単に主人公自身が空気を読めない“痛い”男としてのメタファーとして使用されていたにすぎない。こちらのトラックは、ジャパンの4th『Gentlemen Take Polaroids』のボーナストラックで入っている「The Experience Of Swimming」で、キーボードのリチャードが書いた曲で元々アルバムには収録されてはいない。いわば、リチャードのソロ楽曲だ。静かなアンビエントでクラシカルなインストだが、のちのリチャード・バルビエリの進化の原型がここにある。
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