ヴィンセント・ギャロのこと

Buffalo '66 1998 Vincent Gallo
Buffalo '66 1998 Vincent Gallo

今こそバッキャロー男に大スクリーンで会いたい

最近とんと噂のないヴィンセント・ギャロのことを
朴訥に考えていた。
処女作『バファロー66』は三度観た。
はじめて観たとき、そのオフビートな笑いのセンスに
ぼくは思わずニタニタしてしまった。
ギャロという男のなんともいえない哀愁と茶目っ気に
心を掴まれたからだった。
再びみて、もう随分とこの男ことを注目してからは、
そのきっかけとなった作品がどことなく若く見えてしまうのはご愛嬌だ。
そう思えるのは次の『The Brown Bunny』が
あまりにも素晴らしすぎたために、
やはり最初の一撃がちょっと甘くも見えたってわけだ。

でも、基本的に好きな作品には変わりがないのよ。
何度みてもあの俯瞰ショットのベサニーとのベッドシーンには笑ってしまうし、
ブラウン家の食卓を囲むシーンの映像のお遊びも楽しい。
あんな風な、おまけ的なナルシスティックなハッピーエンドだって、
まっいっか、と思ってしまうほどの空気が、
ギャロの映画には漂っている。

でも、そう考えればこそ、
やはり呪われた作家なのかもしれない、とも思う。
まともな映画批評の対象そのものから
するりと抜け落ちるこの不思議な感性ときたら・・・

ぼくは、ギャロと言う人が、すでにカサヴェテスやクレイマーと
同等に語れる資質をもった作家だと思っている。
もちろん半ば強引な偏愛から推しているのだが、
なによりもすばらしいのは、その脚本力だと思う。
ラスト数分を導くための、長過ぎても長過ぎることのない序章。
良きアメリカの遺産である、ジョン・フォードなんかが魅せてきた、
あの広大なアメリカのまぎれもない美しい原風景を
うまくつかってのラブ&ロードムービーは実に感動的だった。
真っ白砂漠みたいなところで、
ギャロがひとりバイクを吹かし爆走するシーンが好きだ。

そんな風に、今やもうだれもがギャロの才能を疑わないだけに、
この音信不通な感じが寂しく思うのだ。
ならばとギャロの音楽を聞いたり、
他の監督と絡んだ俳優ギャロを拝見するというのには
ちょっと注意してほしい。
音楽は音楽だからいいとして、
例えばクレール=ドゥニのニ作品『ガ-ゴイル』『ネネットとボニ』。
いやあ、まったく、それが嘘のようにつまらなくって、
ぼくはこれを観たときいっぺんにドゥニ不信になってしまったんだよ。
もっとも、ドゥニのことは前から知っていたし
『ショコラ』を公開時にリアルタイムで観ていたことすらわすれてしまっているけど、
今じゃ映画の記憶がほとんど抜け落ちてしまっている。
ただギャロが出演していたということ以外はね。

ひとことでいうと、ここには人間が不在なのである。
『ガ-ゴイル』は、いわゆるホラー的な要素のある映画なのだけれど、
役に頼り過ぎて本来の意味で、人間が全く描けていない。
官能の映画でもなんでもない。
ベアトリス・ダルにしてもギャロにしても
その個性だけが一人歩きする映画なんて退屈きわまりない。
パリの街そのものが活きているわけでもないし、
シーンそのもののインパクトだけって感じなのだ。

だいたい、犠牲になる相手が行きづりの相手で、
これをして愛の映画だなんていえるのだろうか?
もし、愛そのものを期待するなら『The Brown Bunny』で十分満足だし、
仮にホラーとしての怖さと期待するなら、
ぼくはポランスキーやナ・ホンジンに期待するよ。
『反撥』のドヌーブのことを思い出して欲しい。
『Cure』の萩原聖人 を思い出して欲しい。
『コクソン』の國村隼 を思い出して欲しい。
ウォーレスの『IT』のピエロ、
あるいはジョーダン・ピールの『ゲット・アウト』の
アーミテージ家でもいいんだよ。

もし肉体のエロスを期待するのなら、
思い切って小沼勝の『花芯の刺青 熟れた壺』なんかの谷ナオミを思い起こしたいし、
最近ならパク・チャヌクの『お嬢さん』を思い出してくれればいい。
だから、クレール・ドニの映画になにを期待すればいいのか、
ぼくにはさっぱりわからない。
ダルの、まったくダルらしくない演技といえば、
諏訪敦彦の『H story』なんかを思い出すけど、
まだあっちは新鮮な違和感に期待できたし、
ギャロはやっぱりギャロ自身の“ホン”で観る方がいい。
しかしそれがたった二本しかないのだが、
日本ありゃ十分かと、今は納得している。

もう、そんなこんなで、ドゥニでのギャロには
ちょっと頭に来る感じがあった。
要するに残念だったということがいいたいだけだ。
まあ、さすがに、ドゥニが助監督で付いていた監督は、
リヴェットにせよ、ヴェンダースにせよ、ジャームッシュにしろ、
一流所だから、画調はさすがだし、ムード、雰囲気はよく出来ているんだけどね、
申し訳ないけど、そんなフォローをしてまで買える監督じゃない。
映画ってそんな生易しいものじゃないってことなんだ。
『ネネットとボニ』はもう語る気もうせる、ってな感じで、
映画ってつくづく、俳優ではなく、
監督のものだってことがわかった。

おっと、いつの間にかドゥニ批判に甘んじてしまったが、
裏を返せば、それぐらいギャロの個性にやられちまった思いが過剰に反応したのかもね。
そう、ギャロの本編に戻ろう。
『The Brown Bunny』を2003年に公開後
日本でもフジロックにミュージシャンとして出演したり
モデルの活動、あるいは俳優業の方を
小規模ながらに行なっていた形跡は知っている。
で、映画の方はとんとご無沙汰だと思っていたら、
2010年に三作目の『Promises Written in Water』という作品を撮っているようなのだが
残念ながら情報すら入手できていない。
阪本順治の『人類資金』にも出演しているらしいがこちらも未見だ。

何れにせよ、ぼくにはギャロの映画人としての才能を
高く買っているだけに
もう一度大きなスクリーンでギャロ詣を敢行したいと思っているんだよ。

Vincent Gallo – When

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