ジャック・ベッケル 『穴』をめぐって

Le Trou 1960 Jacques Becker
Le Trou 1960 Jacques Becker

現実を脱っするには穴がいるが、実現するには穴がある

人生とは所詮束縛の連続で、
窮屈に感ずる我々はそこからどう逃うるか
ということばかりに頭を悩ませ、
日々必死にもがき生きている。
しかし、結論から言えば、出口などどこにもない。
考えることがすでに束縛の始まりなのだから。
そう理解して、束縛を受け入れて
どうにかして楽しむ方向にシフトでもした方がよっぽど建設的だし、
運が良ければ抜け道の一つ二つ見つかるかもしれない。

そんな時、ふと考える。
小説や映画においては
脱獄、脱走というテーマは昔から一つのロマンとして
しばしば取り上げられ、我々観客を魅了してきたことを。
無論、現実にそうした体験をすることなんて
あるはずもない、という大前提に我々は立っている。
それゆえに、ひたすら傍観者として
その行為へ向け好奇の眼差しを注ぎたくなるわけだ。
人はいかにして究極の束縛から脱しうるのか?

脱走にはスリルと謎解き、いわゆるミステリーの要素が満載だ。
用意周到なまでの計画、前提となる他人との信頼関係。
だが敵を欺くには味方からとはよくいったものだ。
抜け駆けはいないか、裏切り者を察知しなければならない。
ミスは一つも許されない中で、どうやって目的を達成するか?
そこには的確な行動力と判断力を伴わなければ実現はしない。
命がけの逃避行においては、どの要素が欠けても達成されないという、
シビアな現実が待ち構えている。

そこで映画との関係性を無理くりに結びつけるとしたら、
どちらも共同作業であるということではないだろうか。
信頼、協力、そして準備、勘、経験などが必要で、
共通の目的が支配し、導く臨場感こそは醍醐味であり
手に取るように想像できる共感の部分だ。
ジャック・ベッケルの遺作『穴』は
同じ部屋に収監されたもの同志、
目的はただ一つ、自由になることだ。
そうした力学に支配された傑作映画である。

しかしながら、この映画が訴えかけてくるのは
単に脱獄のサスペンスのみならず
そこにまつわる人間ドラマにこそ心動かされる映画なのだ。
そこにベッケルのベッケルたるゆえんがある。

あたかもあらゆる団体競技がそうであるように
お互い、個人を捨てるところから始まる。
まずいパンやコーヒーを分かち合いながら、
大胆かつ慎重に穴が穿たれてゆく。
そして、役割を明確にしながら、
個人プレイは許されない。
つまりは連携プレーなくして
あの見事な脱獄劇はなしえないのだから。
もっとも一人でこっそりと、そうしたプレッシャーや束縛を
かいくぐるなどと言う究極の個人プレーは
この場合、度返しことにするとしよう。

この映画が特筆すべきものであるのは
そうした脱獄を演じるのがズブの素人であり、
実際に1947年のサンテ刑務所で起きた脱獄事件を元に
それを自伝的に書き起こしたジョゼ・ジョヴァンニの小説を元に
実際に現場を経験したひとりジャン・ケロディが
寡黙でありながらも頼れる主犯ロランを演じていることだ。
言うなれば脱獄囚のなかに“模範者”、
リアルな体験者が紛れ込んでいるという事情に、
ただひたすら興奮を覚えない訳にはいかない。
だからこそ、見事な緊張感、リアルを生むことに成功しているのだ。

当初の計画では四人。
このカルテットに一人の善人めいた参入者が加わる。
これが運命のいたずらとなる。
“めいた”、とあえて書いたのは
その内面を巡っては我々個々の解釈に委ねられようものだから。
所長に呼ばれて、罠にはめられ
その計画にヒビが入ろうとしていく緊張感。
その心理的葛藤、裏切りによって、
計画の頓挫イコール映画としての終焉が同時に告げられるのだが、
途中で一度、マニュとガスパールが
刑務所外のマンホールへと到達し、シャバの空気を吸うシーンがあるのだが、
二人はそこでは決して逃走したりはしないのだ。
律儀に仲間のうちに戻る。
そこで我々はこの脱獄犯たちの絆を確認することになる。
ここがこの映画の伏線として記憶されることになる。

いざ脱獄の手はずが整うと計画を放棄する男がいる。
ジョーは母親にまで捜査の手がかかるということを危惧して身を引くのだ。
決して裏切りや無気力、無関心からではない。
そうした情的なものに対しては、
脱獄という共通の目標を掲げる人間たちには敏感に響くわけだが
所長に呼ばれ、その素直に誘導されつつ、
正直な心のうちにゆれる場合には
容赦のない懐疑的な目が向けられる。
動機が内にあるか、外にあるか、である。
究極の現場で発揮される嗅覚ほど確かなものはない。
それがガスパールを悩ませる。

この対比が実に面白いのだが、
クライマックスで、見張り役のジョーが
歯ブラシにガラスをくっつけ、外を偵察すると
あたかも河川を決壊せんとばかりに
看守たちのここぞとばかりにまちかまえている。
この恐ろしい緊迫感。
万事休すである。
四人が抱いていた、新参ものの裏切りへの直感は
ここで見事に的中することになる。

こうしてガスパールは仲間から洗礼を浴びるが時すでにおそし。
同時に、それは計画の失敗を意味するのだ。
四人は服を脱がされた状態で通路の壁に手をつかされ万事休す。
ひとり独房へと誘導を受けるガスパールには
リーダー格ロランが「可哀想なやつ」と呟く。
その時、このドラマは裏切った人間への憐れみでなく
誠実なるが故に現実社会に翻弄されてしまった
ひとりの男への憐れみを写し出して映画は終わる。

もし、自分がその場に居合わせたなら
果たしてどちらの行動に出ただろうか?
逃走補助か、諦めか、それとも自分に対する忠誠か。
ベッケル の『穴』は見るものの心に穴を穿ち
無風ではいられない気分にさせる。
容赦無く風が吹き込んでくるのだ。

トル、トル、トル。
何度でも呟きたくなる。
渾身の思いで穿った穴(Le Trou)の先にある希望。
この傑作を見直すごとに、何度でも繰り返すに違いない。
気の遠くなるような脱獄劇を命がけで思案し、
それを実行に移し、そして、最後は力尽きる。
スポーツのように、惜しかったね、よくやったぞ、
明日があるさ、などと能天気に声をかける阿呆はいるまい。
ジタバタしてももう遅い。
絶対の敗北。
そして失意のなかで、虚無と絶望の嵐が吹き荒れる。
この命がけの唯一の光は自由への意思を
ただひたすら疑わなかったこと、ただそれだけだ。
そしてそれを共有できたという事実。
我々はその証人だ。
しかし、脱獄を企てる方も企てる方だし
それをまた映画にしようとする方もする方である。
これが遺作だったなんて・・・
無念の中断が映画史にぽっかり穴を開けた。
ベッケルはやはり如何しようも無い天才だ。

ボリス・ヴィアン:Le déserteur

脱走は脱走でも全然ニュアンスが違うのが、このボリス・ヴァインの名曲シャンソン「脱走兵」である。獄中、穴を掘って脱獄を図ったが、仲間内の密告で全ておじゃんになってしまう『穴』があくまで、個人による権力への抵抗、というよりはシャバに戻って自由を謳歌したいという本能的行動だったのに対し、ヴィアンが歌う脱走兵は、戦争そのものが嫌なのだ。人を殺したり、命を奪われたりするのが嫌なので脱走する。そういう思いを大統領に手紙で直談判するが、戦争を続けるなら自分は撃たれてもやむ得ない、そんな覚悟で訴えるのである。だからこそ、この歌が大衆に支持され、多くの歌手が歌い継いでいったのである。

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