明日を夢見る男と女、抵抗が奏でる愛と死の倫理学
やたらのんきに見える世の中に
イライラさせられることがあったりする。
ただなんとなく生活にハリがなく
生きているだけ、ってな思いが無意識に強くなってくると
池の中に石を投げ込むように、ちょっとばかし、
つまり、まずは自分の心に向かって
なんかを仕掛けたい気分になってくる。
ラジカルな高揚感を望む、とでもいうのだろうか?
例えば、アメリカンニューシネマを代表する、
『俺たちに明日はない』って映画を思い出そう。
そう、あの壮絶なラストシーンで終わるやつだ。
ボニーとクライドが、完膚なきまでの蜂の巣状にされる、あれ。
スローモーションで死んでゆく様が撮影される、
通称「死のバレエ」なんて形容されている。
爽快感、というと語弊があるけれど
あそこまでの過激な暴力性を見せつけられると、
圧巻というか、時にスッとする。
もちろん、不条理で権威的、支配的な暴力は勘弁だけど
道徳や倫理を超えたところで素直に感情が優先されるのだ。
まずはタイトルの『俺たちに明日はない』について。
うまくつけたな、って思う。
この辺りは言葉のチカラを改めて感じるところ。
(この後に作られた『明日に向かって撃て』なんかは完全に二匹目のドジョウだな)
完璧なまでに物語の骨子を伝えているけれど、
それまではずっとカントリーミュージックに乗じて
ひっぱってきたのんきな感じが、
タイトルを引き合いに出すまでもなく、一変して
あの息を呑むような感じ、これよこれってな感じで死へ向かうボニーとクライド。
世間を震撼させた世紀のギャングカップルの物語だ。
時は世界恐慌渦で、
この有名な悪のカップルが引き起こす波乱万丈の騒動に、
当時の世間は震撼したと思いきや、必ずしもそうではなかったらしい。
支持をしていた人も結構いたというので
このカップルには何か人を惹きつける魅力があったのだ。
確かにその辺を匂わせるようなシーンがいくつかあった。
銀行に家を担保で持ってかれた農夫に拳銃を渡して
さあ、あんたらの憂さを晴らせよってなシーンだとか
難民というか、集団で身を寄せ合って暮らしている人々から
無言で施しを受け背中を押されるシーンだったり、
まあ、この辺は実にバランスよくうまく盛り込まれてはいる。
幾度も映画化されているのを見ても明らかなように
多くの人を魅了し続けた二人の逃亡録。
音楽でも、ジョージー・フェイムが全英ヒットを記録すれば
エミネムがラップに歌い、
ゲンスブールはそれをクールにイコン化した。
ちなみに、ゲンスブールが歌ったのは
ボニーが死の一週間前に新聞社に送った
「The Trail’s End」って詩がベースになっていたっけな。
悪い奴ほど魅力的、という短絡的なものではない。
不安定で、不公平な世の中の歪みが生み出した怪物たちの運命は、
それまでのハリウッドの既成概念を打ち破る作品だったことは
間違いなくこの映画の推進力になっている。
犯罪史においても映画史的にもおいても
その偶然が重なって記憶に残る一頁を築き上げたのだった。
だが、ここで素直に、登場人物たちの魅力について
ちょっと立ち止まって色々と考えてみたい。
言うなれば、一途さ、焦燥感、刹那的、無鉄砲さ・・・
なんだっていいんだれど
それをひとつのパッケージにするなんてこととは違う。
その結論は、これはやっぱり映画として
現実とは切り離して
しっかりフィクションとしてみるってことなんだと思うわけなんだな。
例えば、凶悪犯罪カップルのストーリーでいうと
こののちに撮られたレナード・カッスルの
『ハネムーンキラーズ』があるけれども
映画としてなら、あっちの方がもっとインパクトが大きくって
直接的に心に響いたかなとは思っている。
優劣とは別の感情だ。
もちろん、『俺たちに明日はない』には『ハネムーンキラーズ』にはない
良さがあるんだけれども
後者にはのんきさを穿つようなインパクトが強くあったと思う。
『ハネムーンキラーズ』の場合、
あれは凶悪犯罪という名目の元に、
一人の太った容姿に問題がある女の究極の愛情、
つまりは狂気の愛ってものがドキュメンタリー調の映像と相まって
そのヒリヒリ感が実に皮膚感覚としても伝わってきた。
ボニーとクライドには、そこまでの切羽詰まった感じがしない。
どちらかというと二人のカップルによる逃亡劇という意味合いが強いのだ。
そして、フェイのフェミナンな感性が
映画として魅力的だったなって思う。
文字通り、フェイの出世作となったほどだ。
そうなんだよ、これって
世間でいうパワードレッシングの概念というか
あのファッションセンスや、不能に悩むクライドへの眼差しというか、
見え隠れする性的衝動を含むそれらが実に魅力的だ。
映画を見る場合、時代背景っていうのは、
本当に重要な要素だなって思う。
そもそも、勧善懲悪ってものが
そんな単純なことで片つくもんじゃないってことを見極めなきゃいけない。
アメリカンニューシネマだからというのは置いておいても、
それまでの規制を度外視して新しいものを作るってことは
それは大変なことだったろうし、
そのためにはやはりふさわしい題材ってものがある。
ボニーとクライドの明日なき逃走が、
その気運と実にマッチしたってことは言うまでもない。
素材としてはこれ以上のものはないだろう。
だから、八十七発もの弾丸が二人を蜂の巣にした
あの強烈なラストがずっと胸に残るのだ。
時代の空気とともに
リアルタイムで観たら、もっと違う思いになったはずだ。
きっと映画館で、しばらく動けないほどの衝撃を受けたかもしれない。
それまでの既成概念、コードを次々に打ち破って、
映画を通して、人が人としての立場で社会に反抗する意味を発見する。
ロックンロールやパンクがそうであったように、
平坦な時代に開けた孔は貴重かつ衝撃的だ。
けれども、それらが当たり前になってくると
それがどうしたの、それがなんだっていうの?
なんていう風に覚めた声にトーンダウンするから、残念でならない。
いい映画が時代に左右されるわけがない。
ボクは今さっき、ずいぶん久しぶりに
『俺たちに明日はない』を見終わったばかりだけど
十分その乾きは癒されたもの。
ラストシーンの衝撃に至るまで、
フェイ・ダナウェイを愛おしいと何度思ったか。
できれば二人をもっともっと生かしてやりたい
逃がしてやりたいと思ってしまったよ。
この映画がそれまでのがんじがらめの映画界を
文字通り蜂の巣状にしてしまった映画として記憶されるべきなんだろう。
その爽快さときたら・・・
けれどそのことばかりに重きを置いて書いていても虚しい思いがする。
誰からもソッポを向かれる恐ろしさ。
でもそんなことに怯える必要もない。
のっけからフェイの唇のクローズアップに始まる。
そして、悩ましい裸体(あけすけではないけどね)を晒し
なんというか、そこから多く暴力と性衝動のようなものを引きずって
グイグイと引っ張ってゆく々に向こう見ずなまでのダイナミズム。
そこにまちがいなく映画的な快楽が横たわっている。
それまでヘイズコードによって自主規制されてきたタブーが
ぐいぐいと打ち破られてゆく瞬間の美しさ。
流血、殺傷、性描写を想起するシーンなどなど
それが映画としてうまく物語を形成しているのだ。
クライドはクライドで、ウォレーン・ベイティの哀愁漂う演技が
これまたよかったなって思う。
七面鳥を盗んだかどで2年も投獄されて、
その無秩序な刑務所暮らしのその想いが、
このギャングの心に火を付ける。
そう、そこにボニーが現れる。
恋と逃走が重なって、二人は運命共同体として生きねばならなかった。
間違っても彼らを悲劇のヒーローに崇めたててはいけないのだ。
だからこそ、あの壮絶な死のバレエが美しく見えるのだから。
コメントを残す