ベルナルド・ベルトルッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』をめぐって

『last tango in paris』1972 ベルナルド・ベルトルッチ
『last tango in paris』1972 ベルナルド・ベルトルッチ

タンゴのセックスは、チョイ悪おっさんの性的アナーキズムを増長する

ベルナルド・ベルトルッチ監督が亡くなって、
まだ、二年とすこししかたっていない。
何とかその功績に応じて、追悼されてはきたが、
自分のなかでは、まだ消化しきれていないのが現状である。
何しろ自分の中での記憶がいまいち古過ぎて、
どの映画を語るにも思うようには語れないもどかしさがある。
それなのに、いっちょ前にベルトルッチの映画について語ってしまうのは
かつて、ベルトルッチを観たときのインパクトが、
いまだ忘れがたく残っているからだし、
大いに惹きつけられる魅力のある監督であったことは、
どうにも疑う余地がないのである。

我が部屋には、堂々とポスターまで張り巡らせている、
麗しのドミニク・サンダがたっぷりと拝める『暗殺の森』
あるいは『1900年』と言った、どこまでもファッショでアモーレな
映画史的傑作ならいざ知らず、パゾリーニに脚本を贈られデヴューした『殺し』
あるいは『革命前夜』と言った初期作品は、
勢いよく観た記憶だけで、内容が全く付いてきさえいない。
後期の東洋三部作と呼ばれるあたり、
つまり、『ラストエンペラー』や『リトルブッダ』
『シェルタリング・スカイ』あたりでは、
比較的一般受けもよく、名実共に巨匠の名をほしいままにしていたのが、
つい最近のことのように覚えているのだが、
あいにく、それらに関してはさほど語りつくしたいほどの欲望が湧いてこない。

ならば、それよりも何よりも、
まず『ラストタンゴ・イン・パリ』の強烈なインパクトを、
どうにもこうにも抗えない悪夢のように、
多感な映画的感性の神経の溝をじっとりと湿らせ、
あるいはヒリヒリとした後味でもって刺激されたことを、
いまなお手に取るように覚えている身としては、
こいつをまず肴に、御題目を唱えないわけにはいかない。

野獣のような中年男マーロン・ブランドと、
無邪気で可愛い雌鶏みたいなクリクリの目をした
若いマリー・シュナイダーの、世にも恐ろしい、本能的官能シーンがあるだけでも、
記憶からはそう易々とは消え去らないものである。
何しろ、上映禁止になるぐらいだから、さすがに、このころのベルトルッチは、
ラディカルでアナーキーな詩人あがりのシネアストで、
同じくスキャンダラスだった、あのパゾリーニの処女作で
助監督を務めていただけのことはある、としきりに感心したものだった。

パリのアパートの空き部屋で、おんなじ物件をたまたま見に来た見知らぬ男と女が、
名前なんてどうでも良いと、お互いのことを知らないまま、
まさに野獣のようにセックスをして、さらにその部屋に住み出して、
欲望の限りを貪り尽くそうというのだから、
やはり、正気の沙汰ではない映画である。
しかも、片方の中年男は、妻を自殺で無くしたばかりだし、
一方の娘にはちゃんとした恋人がいて、
結婚しようかというぐらいの関係の線をいっているのだから、
いくら天下のマーロン・ブランド様とはいえ、
若い嫁入り前の娘をいきなり手篭めになどしてさ、
やっぱり不謹慎極まりないことへの言い訳なんて成り立つわけもない。

この頃のマーロンは、『ゴッドファーザー』での名声の威を借りて、
チョイ悪どころかメチャ悪といっていいほど、業界切っての問題児で、
共演女優には手をつけるわ、セリフは覚えないわ、
おまけに癇癪持ちの筋金入りだから、そりゃあ、名匠ベルトリッチだって、
うかつに手のひらでは転がせまい。
だが、女も女で、いくら恋人が、あのレオー様で、
素っ頓狂な映画狂のTVディレクターだからって、
カンタンに恋人を裏切っちゃってもいいものかしらねえ。

とにかく、これじゃ中年男ってやつは、どんどん図に乗りますわな。
それでも、次第におっさんがおっさんだと認識されてしまえば、
いつまでもオモチャのように扱われてなるものかと、
さすがの小娘も考え始めても不思議じゃない。い
や、ちと遅いぐらいだ。

それににしても、これがポルノかポルノでないか、
芸術か否か、なんて論争はさておき、
こんな破廉恥極まる映画に出てしまったとして、
さすがのマーロンも前妻に愛想を尽かされ、
親権まで剥奪されてしまったのだとか。
何しろ、48歳のおっさんが、19の小娘を強姦し、
その際に事もあろうに、バターを使って
まるで鶏姦のようにケツをほってしまうんだから、
B級ポルノと誤解されてもしょうがないか。
おかげで、シュタイナーの女優人生さえも狂わして、
彼女はそれ以後、ドラッグだの自殺未遂だのと、
呪われた人生を歩んでしまうのである。

問題は、シナリオになかったシーンを、
マーロンの思いつきから、今では考えられないような、
屈辱的なシーンとして撮影を敢行し、
のちにシナリオにあった、なかったと論争を繰り広げることになるわけであるが、
時すでに遅しの感は否めない。
しかも、撮影中には、当のベルトルッチさえお手上げなくらい、
マーロン・ブランドの、暴君ネロばりの逸脱ぶりが目立っていたといくらいだから、
まあ、そこは問題作になるべくしてなった作品だと言えよう。
がしかし、そうしたシーンだけを一方的に切り取って、
映画を映画として観ることのできない貧しい感性を残念に思う。

ベルトルッチ作品としても、確かに問題作ではあったが、
あの衝動的なまでに大胆なセックスシーンに、
特別な意味などあるわけはないし、
やはり、マーロン・ブランドの俳優としてのブランド力は絶大なものがある。
その意味では、ヌーヴォーロマン的下地あっての、革新的な映画だとも受け取れる。

刺激的なのは、ガトー・バルビエリの、思わず口笛を吹いてしまいたくなる、
エロくかつ優雅で甘美なサウンドトラックの旋律に絡んでゆく
テナーサックスの咽び泣き、あるいはオープニングで使用される
フランシス・ベーコンの挑発的なまでの絵画の歪み、
ヴィットリオ・ストラーロによる、ただならぬ気配に満ちたパリの街並みの美的佇まい。
どれをとっても一級品。
そこに、まさに脂の乗ったマーロン様が君臨して、
好き勝手やるわけだから、そりゃあ映画好きにはたまらん作品なわけですよ。

半世紀近くも前の出来事に、下手な倫理観や屁理屈をふりかざす前に、
好きか嫌いか、はっきりとした態度を打ち出せばそれでよろしいのであって、
斜に構えることなどどこにもない。
これだけ世にあっけらかんとポルノ以上のエロが蔓延っている時代に、
目くじら立てるような内容でもあるまい。
そもそもが、ベルトルッチとは、まさにそういう監督なのだから。

それにしても、晩年の車椅子姿のベルトルッチを見ていると、
なぜかあの大島渚監督とダブってみえてしまうのは気のせいか。
大島もまた『愛のコリーダ』で猥褻かゲイジュツか論争に巻き込まれていたし、
ベルトルッチもまた『last tango in paris』で物議を醸して以来
危険なシネアストとして知れ渡ってしまったが、
どちらにせよ、この二人は共に影響を受け合いながら同時代の空気の中で、
異彩を放った映画界の孤独な革命児であった。
その晩年が、両名ともに健康状態に恵まれず、
スクリーン上での幸福な死に迎えられなかったことだけが、
残念ではあったが、決してその名が卑しめられることがあってはならないのだ。

聞け
まばらな雲から
乾いた喬木に雨が降る
カサカサの松に雨が降る
聖なる銀梅花に雨が降る
我らの露わな手に
うすい衣の上に
新たな雨の上に雨が降る
昨日君を誘惑した夢が
今日、私を惑わす‥

ガブリエレ・ダヌンツィオ『松林の雨』の一節
『暗殺の森』マルチェロの台詞より

Grazie Bernardo, Viva Bertolucci!

Last Tango In Paris: Gato Barbieri

この映画のサントラが、また、最高に素晴らしくって、
これ単独で聴いていても、最高にクールだから、
BGMにもぜひおススメしたい一枚でもある。
ガトー・バルビエリこと、本名レアンドロ・バルビエリは
アルゼンチン出身のテナーサックス奏者で、
のちにイタリアやニューヨークに移り住んだコスモポリタンであり、
コルトレーンに多大な影響をうけながらも、
ルーツであるラテン要素を取り入れてのフリージャズの騎手として、
この『ラストタンゴ』辺りからメキメキと頭角を現していくことになる。
のちに代表作となったカルロス・サンタナの名曲
『哀愁のヨーロッパ』のカバーなんかを聴いても、
ガトーの持つ曲には、ムードメイクに最適なエモーションと品格のバランスが絶妙だ。
ここには、日本のムードミュージックには
どうしても醸しだせない越えがたい溝が横たわっている。
まさに媚態なきノマドとしての、
明日をも知らぬまま交わし合う男と女の、
妖しくも危うい重なりあう様のように、うっとり身を委ねてみたくなる音楽である。

ちなみにガトーとは、スペイン語の猫を意味するニックネームで、
長年にわたって、ガトーを支えた妻ミシェルによって命名されたとか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です