あーだ、こーだ、終章の入り口で寵児を語る
その人物が、まだ在命か否かでは
自ずと思い入れも違ってくる気がしている。
伝説が一人歩きするような、歴史的人物への思いは
ある意味吹っ切れたように、ストレートにぶつけられる。
音楽でいうならば、バッハやモーツァルト、ベートベン
といったような偉人などは
残された産物とともに、必要以上の妄想を伴って
勝手に一人歩きしてしまうものだ。
が、いみじくも同じ空気をリアルタイムに共有してきたと言う事実に裏付けされ
自分が同時代人だと強く意識するような親近感に対し、
つまり、そうした目線のつい先にいる相手なら
まるで疑似家族のような思いすら込み上げてくる、
なんて言うと、ちょっと大げさか。
ちょうど思春期の頃に出会った音楽の重要性について、
中でもYMOの存在はそういう意味で格別だったことは
なんども感じてきたことだし、
うだうだと書いてみたい気持ちを抑えながらも
畢竟、どうにもまとまりそうもないとわかりつつも、
やっぱり、触れぬわけにはいかぬのだ。
どうでも良いことだが、若い頃の自分は
“一人YMO”などと、呼ばれ得意になっていた時期もあった。
外見はどうやら細野さん風、ちょっと神経質で気取った風態には幸宏氏を重ね
そして髪型や眼差しなんかには教授の面影があったのかもしれない。
無論、ちょっと勝手な思い込み、妄想にすぎぬ。
ただし、どこか3人の存在を無意識に一つに取り込みつつ
影響を受けていたのは間違いないのである。
さて、その3人のメンバーには、それぞれの思い入れがあり
誰か一人を特別に見ていた、ということはないのだが、
一人のソロアーティストとしてはそれぞれ個々に語るべく、
十二分な切り口の対象であるものの、
そうはいってもなかなか生易しいものでもなく、
彼らが音楽シーンで残してきた業績の数々を
単に振り返るだけでも膨大かつ、実に壮大なものであることの前には
呆然とたち尽くすことになるだけである。
やはり、偉大なトリオがYMOである。
細野さんについては、書いた。
五十周年の区切りで『細野観光』という催しに足を運んだこともあり
比較的スムーズに感想程度ではあるが、言葉を綴れた気もある。
それとて、50年の活動を取りまとめてくれたことへの
素直な反応に過ぎない。
が、次にとなると難しい。
ダンディでロマンティシズムの権化、幸宏氏、
はたまたニューウエイブでラディカルな教授か。
そんな折に、坂本龍一のドキュメンタリー映画
『Ryuichi Sakamoto: CODA』を観た。
映画としての感想は、というよりかは、
文字どおり、アーティスト坂本龍一という一つのアイコンへの思いについて
今だからこそ、深く考え知ることになった気がしているのである。
今回はその個人的な思いを綴ってみようという気になった。
というのも、自分がこれまで音楽を通して見てきた
坂本龍一という一人のアーティストへの思いが
微妙なズレを伴っている気がしたからでもある。
映画で、最初に現れるのは東日本大震災後における
一人の活動家の側面である。
音楽を通してなんとか現実に向き合おうとする坂本氏の思いが
熱く、静かに伝わってくる。
場合によっては、鎮魂歌のようにも思えるし、
それぞれの楽曲がレクイエムのように耳に入ってくる。
原発への反対運動にも加っているのだが、
かつては学生運動全盛期に、今より数段ラジカルで
随分トンがっていた表情からはずいぶんと変化を感じる。
もちろん、それなりの月日が流れているわけだが、
坂本氏は数年前に癌の告知を受け、
月並みだが、大きな衝撃を受けたのだろう。
さらに、言ってしまえば、それゆえの覚悟のような思いを感じ取ったのである。
それはどこかあの三島由紀夫のそれに比較されうるような・・・
といえば言い過ぎだろうか。
ある時、まだ彼らが若く、全盛期であった頃、
このメンバーもいつかは老いるだろう、
はて、一体どの牙城から崩れるのか、と一人で想像したことがある。
年齢的にいえば、無論最年長の細野さんということになるだろうが、
そうはいっても、そんな想像がリアルに思い浮かぶはずもない。
結局、結論は出なかったが、なぜだか、
教授だけは最後まで図太く生き延びていくだろう、
などと勝手に思ってきた節がある。
今も、病気をしたからどうの、年を重ねたからどうの、
ということではないが、
本人はいつそういう時が来ても後悔しないように、
終活とまでは言わないが
それなりの覚悟を決めて、音楽や日常に接しているような気がして、
思わず胸が高鳴ったのである。
坂本龍一の音楽は実に幅広い。
アレンジャーとしてもその手腕のは多くの支持者がいる。
そのアルバムの中では、最も支持するのは
『B-2UNIT』当たりの空気感を
個人的には今尚敏感に想起しているのであるが、
その音のエッジたるや、到底病気を経た、
ある種覚悟を決めたリアルサカモトからは
程遠いような先鋭的な音で構成されている。
まさに教授たる名の全盛期の実験的、冒険的、野心的なサウンドに
こちらも若き日の興奮が今も呼び起こされてはくる。
方や、今聞こえてくるサカモトのリアルからは
もはや、世俗への思いを封印した、
一人の精神的な作曲家としての最後の神聖な祈りのような思いが伝わってくる。
アルバム『async』でも、このドキュメンタリーの中でも
度々言及されているタルコフスキーの映画のような
そんなある種の神聖さである。
かつてはそれこそ、どことなく大胆で不遜で
天才ではあるが、実に真面目な努力家、野心家のイメージがつきまとい、
いささか地味でありながらも、
ポップミュージックから映画音楽に至るまで
絶えず音楽シーンをリードしてきたその膨大なるアウトプットを前にすれば、
その偉大なる軌跡は目眩がするほど豪華絢爛である。
世界を股にかけ、ジャンルや人種を自在に横断しながら
多忙に飛び回っていた時代の寵児も、
アカデミックでインテリジェンスを漂わせながらも
年相応の、一人の人間として滲み出す含蓄にある
どこか遠い眼差しの先が気になってしまうのであった。
称えるにしても、しないにしても、どうにも譲れない教授にまつわる10枚のアルバム
サマー・ナーヴス:カクトウギ・セッション
BGM:Yellow Magic Orchestra
YMOのアルバムを聴いていると、
じつにうまくそれぞれの個性が分散されているのではあるが
このアルバムは教授色が強いアルバムのような気がしている。
テクノからの進化系としての『BGM』ここにあり。
もっとも尖っていた時期のアルバムだと認識しているのだが、
ちなみにオクムラユキマサによるジャケットは、
6色刷の等別な印刷処理がほどこされているのだが、
そうした特殊事情を度外視しても、YMOのアルバムジャケットワークのなかで
もっとも好きな一枚である。
Riot In Lagos:B-2 UNIT
もう何度も言及してきたが、僕にとって、このアルバムの意味は大きい。
この格好良さ、衝撃は、今聞いても変わらない。
坂本龍一という人の、ラディカルで知的な要素が集約された一枚であり、
時代的にも、NEWWAVEの旗手として、
じつに、最前線で闘っていたその姿がはっきり刻印されているアルバムである。
disappointment-hateruma :坂本龍一+土取利行
普通の音楽ファンには決して勧められないが、
普通以上を求める音楽ファン、教授ファンにはぜひ聴いておいて欲しい一枚でもある。
ジャンルは、ミニマルフリーミュージックとでも呼んでおく。
ピーター・ブルック・カンパニーの音楽を担当していた土取利行がまだジャズドラマーだったころのセッション。
A面は坂本カラーが色濃く反映されたミニマル風、
B面では、インプロバイザーとしての土取のプレイが存分に堪能できる、まさに70年代のラジカルで自由な空気のなかでの感性のぶつかり合いが聞ける。
エンド・オブ・エイシア :坂本龍一+ダンスリー
正式名はダンスリー・ルネサンス合奏団。
西洋古楽の枠のみに収まらないダンスリーが
教授の80年代の名曲を古楽アレンジした貴重で珍しいアルバム。
優雅なタイムスリップで中世への旅も悪くはない。
まさに教授の懐の広さを思い知らされる一枚である。
戦場のメリークリスマス OST
映画との関わりは、すべてここから始まったといえる。
いわば記念すべき一枚であり、同時に、坂本龍一の名を
ワールドワイドに押し上げた重要な一枚でもある。
こちらは、全面シンセによるOSTだが
のちに発表されたピアノ版「CODA]とセットで
聞き比べてみるのもいいかもしれない。
甲乙付け難く、それぞれに良さがあるが、
一つ言えることは、戦メリの音は教授ブランド、教授のメロディ感覚が
実にはっきり明確に刻印されたナンバーだということだ。
音楽図鑑
「音楽図鑑」とはいかにも教授らしい、 上手くつけたタイトルだと思う。
アルバムジャケットの遊び心を含めて、とっつきやすく、聴きやすい。
坂本ワークスの入り口としても最適なアルバムだといえる一枚。これは2015年にデジタル・リマスター盤としてリリースされたものだが、
オリジナル版よりも収録曲がやたら多く、
ファンにとっては、ボーナス版だが、個人的には
ここまで詰め込まなくても、オリジナル版ぐらいでちょうどいいのだが。
GEISHA GIRLS SHOW 炎のおっさんアワー:THE GEISHA GIRLS
芸者ガールズ ダウンタウンのジョークに応じた格好で
イロモノ企画として扱われているのだが
それだけで聞かないのはあまりももったいない。
内容はYMO時代のスネークマンショーの流れを引き継ぐ形で
ダウンタウンのコントも秀逸だが、教授が関わった企画もののなかでも
収録された楽曲のクオリティはかなり高く、気合いが入っている。
サイモンとガーファンクルを彷彿とさせる「少年」は名曲だ。
ZERO LANDMINE
地雷撲滅キャンペーンのために、教授が呼びかけ、実現したプロジェクト。
基本的には、盟友シルヴィアンがボーカルをとった曲に
豪華絢爛たる参加ミュージシャンたちが絡んでゆく、という壮大なプロジェクトだが、ここでの坂本のリーダシップぶりはすごいし、
結果、成功を収めたと言っていい。
こうしたチャリティものをここまでひっぱってゆける日本のミュージシャンはやはり、この人ぐらいだろう。
ASYNC
ドキュメンタリー『Ryuichi Sakamoto: CODA』をみて思ったのだが、
このアルバムの空気感は、ある種、教授の覚悟が座った一枚にも思えてくる。
確かに、大病から回復、復帰したという、希望のようなものはあるが、
基本、重く深く哀しい波動が全面に漂ってくる。
すでに佳境に入った音楽活動の集大成なのかもしれない・・・
だからこそ、なぜだか、感動的に心に刺さってくるものがあるのである。
改めて、坂本龍一という才能、個性、その軌跡の前に圧倒されるばかりです。
まだまだ、名盤はいっぱいあるとはいえ、
それよりも、まずはその功績を称えておかなきゃ何も始まらないわけでね・・・
ガンがまた再発したというし、気がかりではあるのだけれど、
くれぐれも、体調に気をつけて、
まだまだ面白い音楽を聴かせてほしいものだという
なんだか、優等生的な言葉で〆させていただこう。
よく言えば、サービス精神旺盛、悪く言えば軽佻浮薄。
このころの教授には、そんな雰囲気というか、余裕さえ感じさせる。
なにをやっても、自信満々で、それでいて、無難にこなしてしまうし、メロディセンスは相変わらず非凡だし、絶対に外さない。
対するミュージシャンたちもツワモノ揃い、まさにカクトウギのようにジャズ&フュージョンからシティポップまで、自在に斬っておりますね。
けして、レゲエ調、ボッサ調といった単調なものではありません。