ホルガー・シューカイを偲んで

HOLGER CZUKAY 1938-2017
HOLGER CZUKAY 1938-2017

カンを開けると、ラジオを仲介する音の魔法使いが、ペルシアン・ラブに乗って現れた・・・

テレビ自体をもたない生活を
かれこれ約三十年ほど過ごしてきたから、
いまさらテレビが見たい欲しい、気になる、
というようなことはまずない。
そのかわり、ラジオ(レイディオではなく、あえてラジオ)の存在は
年々大きくなっている気がしているのだ。

幸いにも、ラジコのおかげで、いまは、
わざわざ手動で周波数を合わせる必要もないし、
リアルタイムでなく、タイムフリー、
つまり好きな時間にクリアな音で聴けるから、
全くもってありがたい時代である。
ありがたいが、昭和レトロなノイズまじりのラジオにも
捨てがたい魅力があった。
あのラジオノイズやファックスノイズが
実は、いまでも郷愁をくすぐったりするのだが、
遠い日の花火になりつつあるのは少し寂しい。

まず、物体としてのラジオは、テレビほど場所を取らず、
そこそこのインテリアとしての存在価値もあったような気がする。
なかでも短波ラジオというものなら、
世界中の放送をどこにいてもキャッチすることができ、
いわば魔法の箱、といわんばかりの魅力があった。
そのラジオから流れてきた歌というか、
はたまた祈りというかを音楽に組み込んだのが、
ドイツクラウトロックバンドの重鎮、
カンのリーダーでベーシストのホルガー・シューカイという人物である。
その名も「Persian Love」という宝石のような名曲があり、
ホルガーを代表する一曲で、日本でもサントリーのCMソングにも起用され、
話題になった。

ラジオが楽器、というと語弊があるのだが、
ホルガーはラジオの音源を楽曲に組み込む、
いうなればコラージュミュージックというジャンルを、
ポップミュージックのジャンルで確立した第一人者であった。
元来はシュトックハウゼンの弟子というか、生徒だったこともあり、
ミュージックコンクレート(現代音楽)の分野として扱ってもいいわけだが、
実験性をポップミュージックに乗せるという手法は、
今日のコンピューター主導の音作りなら、さして難しいことではないし、
様々なジャンルにおいても普通に耳にすることが可能であるが、
ホルガーという人は、まさにアナログの手法、
つまりはオープンリールを使い、
生のテープを切り貼りして音を自在にミクスすることで
数々の魔法の音楽を生み出して来たアルチザンでもあった。
残念ながら2017年に他界してしまったこの実験ロックの巨匠のその魂は
永遠に刻み続けられると思う。

ぼくは、ホルガーのソロから入って、カンを聴くようになった口で
カンの偉大さそのものも理解しているが、
なんといっても、「Persian Love」を聴いて
この音の錬金術に魅了されてしまったホルガーファンであった。
そして、そのホルガーの右腕でもあったエンジニアのコニー・プランクとともに
当時、もっともリスペクトしていたミュージシャンの一人であった。

自分でも、そんなホルガーの影響下で
ひとりで宅録にふけっていたのもこの頃で、
いつしか、それをいろんな海外のレーベルやミュージシャンに
レコード会社経由でダイレクトに送って、ひそかに反応を期待したものだった。
しかし、どこからも、梨の礫であった・・・

ホルガーを訪ねて三千里

さて、そんなホルガー・シューカイにあったことが一度だけある。
いまから三十年も昔の話だ。
正式にいうと、自分から会いにいったのだ。
それは、我が人生でもっとも行動的で、恐れを知らぬ無法ものだった頃の話だ。
もっていたレコードの裏にあった、ホルガーのマネージメントの住所が
フランスのルシヨンというところにある、というのが唯一の手がかりで
ぼくはわざわざ、そのマネージャーだったヒルデガルト・シュミット氏を尋ね、
ケルンに在住のホルガーに直に会って、自作の音楽を聴いてもらおうと考えたのである。

まずはパリで地図を買い、それを片手にアビニョンで数日滞在し、
というのも、そこからバスでさらに数時間のローカル都市ルシヨンを訪ねるのは
インターネットもない当時、土地勘のない人間には一大冒険だった。
しかも、交通手段はバスのみ、それも週に2本ぐらいで、
一日午前午後一本ずつぐらいの運行しかなかったのである。
(今はどうかは知らないが、それでも車をもっていないとなかなか行けないと思う)
で、ようやくたどりついたルシヨンの町は、まるで中世の都市のように、
まるで観光ずれしていない、素朴かつ美しい町だった記憶があるが
僕の目的はただひとつ、ホルガーのマネージメントに直接交渉して
ホルガーに会うことだったので、そのことで目一杯だったのだ。

ただでさえ、時間は限られており、ぐずぐずしていられないのだが、
あえても、ホルガーにコンタクトを取れる保証はどこにもなかった。
だが、会わないことには始まらないし、どいうにかここまでやってきたのだ、
そういう必死の思いで、そこからさらに徒歩で小一時間かけて
無事マネージメント宅をみつけることができたのだが、
どうやら、そこに人気がしない。
幸い、犬がいたために、きっとどこかに出かけているのだろう、と思った。
少し待とうと家の前でしばらく待っていると、マネージャーが現れた。
ぼくは、とにかくつたない英語で、日本からはるばる
ホルガーに会いたい思いでやってきた旨を伝えると
氏は、この風変わりな日本人に四の五のいわず、
紙切れにさらりホルガーの電話番号と住所を書いて手渡してくれたのだった。
なんとも清々しい思いがした・・・

お礼をいってお暇した後、
そこからぼくの頭は一路、ケルンへと向かっていた。
麓のバス停まで、さらにテクテク夏の日差しを浴びながら、
二時間ぐらいかけてなんとか迷わずもどってくると、
タイミングよくやってきたアヴィニョン行きのバスにかろうじて間に合った。
そこからのスケジュールは、神がかったように、すべてスムーズに運んだ。
パリからは、夜行でドイツ行きの列車に飛び乗り
コンマの狂いも、むだもなく、翌朝ケルンに到着していた。
初めて訪れたケルンの街は、なぜか日本の気配に似て、
どこか秩序正しい空気に満ちていたのを感じた。

その足で、駅の公衆電話でおそるおそるホルガーに電話をして、
コンタクトをとったのだが、実は気が動転していて、
ホルガーのいったことが実はほとんど理解できなかったのだ。
で、直接住所を訪ねてみるという、大胆な行動にでたのだが、
ちょうど、家から出てくるホルガーとばったり出くわしたのだ。
しかし、予想に反して、ホルガーは実に不機嫌だった。
なんだか怒っているようだった。
それもそのはずで、電話で場所と時間を指定しただろ、
ということだったのだと思うのだが、
今思うと、アポなしで家にまで訪ねてくる無法者をよく受けいてくれたと思う。
そのときのぼくは、とにかく舞い上がっていて
冷静に判断することすらままならなかったのである。

正午にホルガー指定のカフェ、
確か「Bordelero」とかいう店だったと思うが、
コーヒーを飲みながらホルガーを待っていると、約束通り、彼はやってきた。
おそらく、パートナーの女の人USHERを連れて現れた。
ぼくは、さっそく自作のテープをセットしたウォークマンを
ここぞとばかり差し出し、聴いてほしい、と懇願したが、
よし、聴いてやろうと、ここまでは思い描いていたとおりに事が運んだ。
しかし、ヘッドホーン越しのホルガーの表情は冴えなかった。
その上、なにやら厳しいことをいっているのは、なんとなく空気でわかった。
要するに、何かが足りない、というようなことをいわれた気がした。
ぼくが自信を持っていたアプローチに何かが欠けているのだと。
もっと踏み込んだことを言われていたのかもしれないが、
当時のぼくの語学力とその場の緊張感では、ネガティブな印象しか残っていない。

とはいえ、こうして、自分が尊敬するミュージシャンを目の前に
直に自作のテープを聴いてもらうという体験が成就したのだから、
という妙な満足感があったのだ。
だが、ホルガーは、この奇特な日本からの無名のミュージシャンを
その場でただ足蹴にはしなかったのである。
一応は、気を使ってくれたのだろう。
じゃあこれから、スタジオにつれていってやると、
自分の車で市内のどこか体育館のような場所に向かった。
そこではドラムのジャキ・リベツァイトがいた。
ジャキを紹介されたぼくは、握手をし、挨拶をかわしたが、
その時にはすでに、目的意識をうしなっていた。
なにより、スタジオといっても、ただ単に練習場ともいうべき場所で、
思い描くクリエイティブな現場ではなかった。

当時W杯サッカーでドイツが優勝した年で、
ちょうど決勝戦だったこともあって、スタジオにいた連中は
みなテレビに釘付けになっていたことだけは、今もはっきりおぼえている。
その足で、ホルガーに駅まで送ってもらって、
ぼくはそこで改めて、日本人流に誠意をもって
この一連の感激のお礼を告げケルンを離れたのであった。
以上がホルガーに自作のテープを聴いてもらうまでの大まかなドキュメントである。
それでどうしたこうしたは一切ない。
ぼくはその後、自分がどう音楽と関わっていくかを真剣に考えていた時期だったのだ。
ミュージシャンとして、生きていこうという野心もあったが、
なんだか、すべてがまっさらになった。
そして、ぼくは日本に戻って、本格的にアートと関わっていくという方向転換とともに
今のスタイルが出来上がってゆくのであった。

だから、ぼくの今の活動の原点が、
このホルガーとの出会いにあるのは偽りのない思いである。
特別なミュージシャンであり、その思いは今も変わらない。
カンに始まるホルガーの軌跡を、いまさらながらに追ってみると
じつに、偉大な音楽家であったことを感じずにはいられない。
いずれまた、カンを含む軌跡について、じっくり振り返ってみたいが、
今回はこの辺で、キーを止めよう。
あとは、その魔法のような音楽に耳を傾けるだけなのである。

ホルガー・シューカイをほどよく知るためのアルバム選

MOVIES 1979

まぎれもない名盤であり、この「Persian Love」は不朽の名曲だ。
この一曲のおかげで、ホルガーの名前は、
ぼくのようなニューウエイブエイジをまたたく間に虜にしたものだ。
だから、まずは、ホルガーを知るなら、
まずこのアルバムを聴いてみればいいだろう。
コーランの響きを、こんなに身近に、こんなに親しみをもってきくことがあっただろうか。
そこには宗教も、思想も、なにもない、
ただ音楽というマジックで、すべての垣根を超えてしまった美しい瞬間が刻印されているのだ。
そのコーランの美しさもさることながら、
ホルガーの透明感のあるギターフレーズが実に美しい余韻を与えていると思う。

当時のサントリーの選曲はいまでいうところの言葉でいうと、実に神っていたものだった・・・

On the Way to the Peak of Normal 1981

『MOVIES』の二年後に出たアルバム。
高校生のとき、ちょうどPILが初来日をするというので、急に仲良くなった友達がいて
PILも影響を受けているんだよ、といってこのアルバムを貸してあげたら、
あまりの反応のなさに愕然とした思いがある。
それほど、玄人向けのアルバムだったということなのだろうか。

FULL CIRCLE 1983

ジャー・ウーブルとジャキ・リヴェツァイトとのコラボアルバム。
とりわけ、ホルガーとウーブルのベーシスト同士の組み合わせの化学反応がどう出るのか、
実に興味深かったのだが、
ウーブルの存在感が際立っており、よりダブ的処理が施された名盤にしあがっている。

Der Osten Ist Rot  1984

「Photo song」のような牧歌的な曲があったり、
ポーランド軍楽隊による中国国歌があったり、
ミチという日本人による不気味な日本語の曲があったりと、
相変わらず、つかみどころのないごった煮感満載の、
マジカルなホルガーカラーはここでも健在だ。

Canaxis Holger Czukay & Rolf Dammers  1969

CANのファースト・アルバムとほぼ同時期に発表された事実上のファーストソロ。
ミニマルアンビエント風のバックに、ベトナム音楽のサウンドコラージュが展開されており
すでに十年後の「Persian Love」に通じるエッセンスを懐胎しているのが興味深い。

PLIGHT & PREMONITION 1988 / Flux + Mutability 1989
David Sylvian/Holgar Czukay

ホルガーに多大な影響を受けたというシルヴィアンが
JAPAN解散後の初めて出したソロ『Brilliant Tress』で
ホルガーをゲストで招いて以来の付き合いになる関係だが、
この二人のコラボはどちらかとえば、
シルヴァイン色がやや色濃く反映されたアンビエントものに仕上がっている。
これは「PLIGHT & PREMONITION 」「Flux + Mutability 」二枚を同時に収録されている。

TAGO MAGO THE CAN

クラウトロックの名盤としても知れ渡る「TAGO MAGO」
あのジョン・ライドンも多大な影響を受けた一枚だと語っている。
僕個人にとっても一番好きなカンのアルバムで、よく聴いてきた一枚だ。
ダモ鈴木参加による狂気のロック「Oh Yeah」の高揚感がたまらない。

PHEW

ホルガーの参加、コニー・プランクのプロデュース、
そして本龍一が絡んだ神曲のシングル「終曲」
このアルバムが出た当時の衝撃は今も忘れられない。
そして、ぼくはこのアルバムにどれほど勇気をもらったことか。
日本のニューウエイブ、オルタナ系の最先端の音がここにあったのだ。

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