遠くて近い、近くて遠い秘密の扉
風景写真家、あるいは社会を
鑑として映し出してしまう記録写真家として、
デヴューした経歴を持つ英国の写真家ビル・ブラントは
若い頃、マン・レイに師事していたことがある。
二人を引き合わせたのが詩人のエズラ・パウンドだというから
何らかの詩的直感が働いたのであろう。
とはいえ、ビル・ブラントは決してマン・レイの弟子にはならなかったし
実際、マン・レイの影響を感じさせながらも
マン・レイに似せることをよしとしなかった。
耳、目、手、お尻、足、指・・・
傑作『パースペクティブ・オブ・ヌード』における独自性
コントラストの強いパーツ写真を見ていると
確かにマン・レイ譲りの
超現実的な感覚を強く呼び覚まされはするが
そこにはマン・レイの遊び心をもった
ダダイズム的な写真ではなく
メランコリーと文学的示唆にとぶ、
どことなくアイロニーに覆われた
形而上学的な写真のようにも見えてくるのだ。
これらは、アンドレ・ケルテスの鏡を使った
あのディストーション写真にも対比されるが、
ブラントのこの極端なパースペクティブ作品は
どちらといえばルネ・マグリットのデペイズマンや
フランシス・ベーコンのデフォルメされた具象絵画の方に
より近しい息吹を感じる。
マグリットにせよ、ベーコンにせよ
ブラントの被写体になったポートレートが
残されていることからも
何らかの影響は受けていたのであろう。
しかし、ビル・ブラントは決してその影響の源泉を
オープンにはしてこなかった。
ビル・ブラントは秘密に関心をもっていた、
とイギリスの美術批評家イアン・ジュフリーはいう。
「それはまた彼が上品さ、外見、公の顔、
そして秘密を保つことを許す
あらゆる仮面に魅せられていたことを意味している。」
アーティストがなにかに影響を受け、
その影響を露呈してしまうことは別に悪いことではないし、
完全なるオリジナリティというものの定義に
時間を費やすほど無駄なものはない。
だが、どこまでもアーティストを
独創性へと駆り立てるケースというものがある。
オリジナリティに絶対の優位性を抱いていた細江英公などは、
自分の撮った写真の一部が、ビル・ブラントの
『パースペクティブ・オブ・ヌード』の写真に類似していることに悲劇を見る。
以後、自らの作品に自ら閉塞し
10年の年月を無駄にしてしまったほどである。
ビル・ブラントの写真を前にするとき
人は、その隠された秘密を紐解きたい欲望が
ふつふつと込み上げてくるかもしれない。
けれども、写真をいくら眺めていても
ビル・ブラントの文献に目を通していても
秘密があからさまに暴露される訳でもない。
『パースペクティブ・オブ・ヌード』における
各肉体へのクローズアップは、
そうした秘密への鍵として、現前に投げ出されるだけだ。
あたかもブラントが好きだったというヒッチコックの映画のように、
ブラントのポートレートに見る哲学者のような憂いのように謎が提示され、
スッキリした気分になることなどをあらかじめ放棄した瞬間に
その秘密の扉が開く、そんな写真のトリックを感じるのだ。
SILVER MOON : DAVID SYLVIAN
意外という訳でもないが、デヴィッド・シルヴィアンの
1985年『GONE TO EARTH』に収録された
「SILVER MOON」のプロモーションビデオの中に
このビル・ブラントへのオマージュというか
影響されたような構図が出てくる。
シルヴィアンの嗜好なのか、
映像ディレクターのアイデアかどうかはわからないが、
イギリス的叙情の中に現れるパースペクティブな技法が
風景の中にいる人物をより抽象化するというか
物質化している点で興味深い視線を投げかけて来る。
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