カウリスマキブルースを奏でる粋な男に乾杯と言う名の哀悼を。
カウリスマキの映画を見ていると、
どうみても薄幸そうな女ばかりが出てくる。
『マッチ工場の少女』来のミューズで
もはや常連のカティ・オウティネンはもとより、
『ラヴィ・ドゥ・ボエーム』のミミ役イヴリヌ・ディディ然り、
『コントラクト・キラー』でのマージ・クラークにしても
恋こそ運んではくるが、華やかさがあるでもない、
しがないバラ売りの女である。
それに輪をかけて、男優たちが冴えない。
くたびれ果てた、希望や夢のない、
その日限りギリギリの生活に追われている。
何と言っても失業者や貧乏芸術家、移民などがでてきては、
いつも困った顔で、人生を恨めしく見つめている主人公たち。
プロレタリアフィルム、と呼んでいいのか、そんな話ばかりだ。
(僕はあえてカウリスマキブルースと呼んでいる)
要するに、カウリスマキは社会の底辺にいるような
そんな弱者への愛おしさを、
映画を通じて表現する作家であるがゆえに、
必然的に、俳優たちは、そうしたくたびれ感を
どこかで背負っていなければならぬのだ。
とはいえ、カウリスマキの真骨頂は、
そのまさにくたびれた人間たちが奏でるオフビートな笑いであり、
生き様のたくましさ、愛おしさである。
決して、悲観主義にのみ、暮れ果てるような映画作家ではない。
中でもマッティ・ペロンパーという存在は
カウリスマキの分身、片腕的存在であり、
心底信頼を置いていた俳優だっただけに
1995年、44歳の若さで急逝してしまったことは
カウリスマキにとっても、
実に惜しむべき喪失であったであろう。
すでにペロンパーを念頭に書かれていた『浮き雲』では
カリ・ヴァーナネンがその代役を務めたが、
劇中カティ・オウティネンとの間に設けた亡き子供の遺影に
ペロンパーの写真がこっそり使われていたりする。
公開の半年前に急逝したこの盟友に捧げられていることが
なんとも切ないのだ。
そんなマッティの代表作をと、ざっと見渡してみて、
『ラヴィ・ドゥ・ボエーム』という作品を思い返してみよう。
この映画におけるマッティ・ペロンパーの哀愁こそは
カウリスマキ自身のそれと重なるはずだから・・・。
たとえ貧しかろうが、境遇が酷かろうが、
恋人に振り回されようが、決して自暴自棄にならず、
じっと耐え忍びながらも、ぶれずに己れを信じること、
それが唯一の希望なのだ。
ルネ・クレールやジャック・ベッケル 、
それにジャン・ルノワールといった良き時代、
当時の古きフランス映画を意識した銀幕の画面作りに
マッティの残像が静かに余韻を残す、
しみじみとした良質の映画である。
パリの片隅で(ちょっと時代背景は曖昧だが)
くたびれた中年芸術家三人が
身を寄せ合ってボヘミアン生活を送っている。
それぞれがギリギリの生活の中でお互い支えあい、
運命共同体として、日々なんとか生き延びている。
皆幸薄く、虐げられながらも、
その思いはそれぞれに誇り高き芸術家たちなのだ。
マッティ演じるロドルフォはアルバニア出身の売れない画家である。
ボードレール(カウリスマキの愛犬ライカが演じている!)
という犬と暮らしながら、絵の具代にも事欠く貧乏生活。
おまけに、途中で国外追放されてしまう不法滞在の身なのだ。
絵はなかなか認められないが、パトロンで砂糖工場主役で登場する、
ムッシューヌーヴェル・ヴァーグこと、
あの我らがジャン=ピエール=レオによって、
なんとか生活の当てを確保している。
(ちなみに、この映画における絵は
全てカウリスマキ夫人パオラ・オイノネンによるものらしい。
持つべきは良き伴侶!)
レオとマッティ、この二人のとぼけたやりとりも、
なかなか味わい深いものがあるのだが、
今回はあくまでも脇役扱いにつき、触れない。
小説家のマルセルは、のっけから家賃を払えず
家を追い出される羽目になるが、
あのサミュエル・フラーが演じる新聞王の元で
前金をせしめ新たに編集長の座につくはいいが、
そのうちメッキがはがれ「サノヴァビッチ!」と罵られる始末。
そのマルセルが追い出された家にやってきたのが
ショナールというアバンギャルドな音楽家だ。
そんな掃きだめのような皆が集う場で
演奏してみせた前衛音楽「芸術におけるブルーの影響」では、
仲間ですらついてはいけないほど浮世離れしているが、
それでも彼らの絆は一向に揺るがない。
そんな固い絆で結ばれたボヘミアン達に、加わる女達。
ミミという女がある日、ロドルフォの隣人を訪ねてきたが
当人はムショ暮らし、で泊まるところがない。
そのよしみで、交流が始まる。
最初の出会いにおけるこのロドルフォの台詞がなんとも気が利いている。
「ソファは寝心地が悪い。それに僕は手が早いし、君は美人ときてる。」
そうして、暖かく、さりげなく、このストレンジャーに自分のベッドを与え
自分は墓地で一夜を過ごす。
カウリスマキが敬愛する小津映画の人間のように、
どこまでも遠慮深く、どこまでも優しい男だ。
その墓地とは原作「ボヘミアン生活の情景」の作者
アンリ・ミュルジェールの墓でもある。
そこからミミに贈るバラの花を調達するが、
ミミはすでにいない。
こうして、ロドルフォの恋はミミという女に一途に向かうが
肝心のミミの方はあくまでも現実的。
ロドルフォのことは好きだが、貧乏には耐えられないのだ。
しかし、ロドルフォは決して諦めない。
この辺りのロドルフォの一途さは、この映画の根底に流れる、
人間賛歌、情的な絆の深さを全て言い表しているように思える。
結局ミミは住む家さえ追われて、最後はロドルフォの元に帰って来るが
ロドルフォは決して突き放したりしない。
しないばかりか、熱のある彼女を看病する。
こうした誠実さが、ボヘミアン達の根底に流れているのだ。
だが、時すでに遅く、病に冒され余命わずかのミミ。
貧乏を理由にロドルフォの元を離れたことを悔やむ。
そんな思いを胸に秘め、入院費もバカにならないが、
それでもロドルフォは最善を尽くす。
自分の絵を売りさばき、
マルセルは本を、ショナールは車を売り払い、
それぞれが仲間のために金を工面する。
そして、美しい桜の季節。
最後の時を看取るのだ。
生活は貧しくとも心豊かなボヘミアン達の篤き友情。
そして物悲しい現実の対比が美しい。
切なさの花が散る。
どこまでも、さりげなく、淡々と描きながらも、
あらゆる時代において合い通じるであろう心の豊かさの、
人間賛歌が謳われるが、押し付けがましいものはここには一切ない。
それが『ラヴィ・ドゥ・ボエーム』であり
カウリスマキスタイル、つまりはアキブルースなのだ。
この映画はこのほか、いろんなところに笑いのツボというか、
ネタが散りばめられていて、
それをしみじみ味わないながら見直すとより楽しめる。
たとえば、ロドルフォとマルセルが初めてレストランで出会いのシーン。
意気投合する二人が分け合うメインディッシュ「双頭のマス」だとか、
ショナールの入手した小洒落た三輪の車、
ちなみにイギリスリライアント車の「ロビン」という車種で
意外にも1973年発表とのこと。
それに六人がかりでピクニックに出掛けるシーンは
ルネ・クレールの映画を見ているようで、秀逸だ。
そのほかにも新聞王ガソットを演じたのがサミュエル・フラー。
財布をすられ危うく無銭飲食で捕まるところ、
ロドルフォの支払いをかってでた紳士がルイ・マルだったりと、
カウリスマキ人脈の広さ、面白さに微笑むだろう。
劇中ではダミアやレジアニやむルージュといった
古いシャンソンが聞こえてムードは高まる。
エンディングを飾るのはミミの死を悼むかのように流れる
シノハラトシタケの歌う高英男の「雪の降る町を」が
我々日本人のノスタルジィをかきたてないわけがない。
また、マルセルとミミは母国語フランス語を当たり前だが流暢に話すが、
フィンランド語訛りの、ちょっとぎこちないフランス語で
撮影には苦労しただろうロドルフォもショナールも、
その効果として見れば、
これが実に味わい深いカウリスマキ節になるのだから素晴らしい。
結局、どう転んだってアキ・カウリスマキが大好きなのだ。
そんな大好きなカウリスマキ作品に、
二度とマッティ・ペロンパーの雄姿が見れないなんて、やっぱり寂しい。
「雪の降る町を」は、劇中のヒロインの死の悲しみと
それを受け止めるロドルフォと友人達の悲しみのほかに、
それを演じたマッティ・ペロンパーの不在感で
さらなるもの哀しさを滲ませるのだ。
幻のCM
そうしてマッティ・ペロンパーのことを色々考えていたら、
こんなCMがあったのを知って、再び込み上げて来るものがあった。
これまたカウリスマキスタイルそのものだが、
実に味わい深く、実にセンスのいい貴重なCMだ。
すでに二十年以上の月日が流れているのだが、
改めて愛すべきマッティ・ペロンパーに哀悼の思いを捧げたい。
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