感情エレベーターガール。笑って泣いて、泣いて笑って
バカな子ほど可愛いと言うが、
それは女にも当てはまる。そんな話をしよう。
のっけから、恋人だと思い込んでいた男は所持金目当て。
男に裏切られ、いきなり川に突き落とされる散々なカビリア。
子供達に助けてもらった恩すらも返さず、
とにかくどうして自分はこんなに不幸なのかとプンスカプン。
その人生を目一杯呪いながら、
親友や神や聖母にまで悪態をつく始末。
やれやれである。
言うなれば、哀れな女であり、
このイタイ女の物語がこのフェリーニの『カビリアの夜』の骨子である。
が、そうした弱さを文字通りの弱さだと見せない
強さ、底力がこの映画、この女優にはあるのだ。
ゆえにジュリエッタ・マシーナのこれぞ魅力
ってなものがなんとも全開な話なのである。
いいですねえ、マシーナ、マシーナいいですねえ・・・
あの映画評論の神こと淀川先生の声が聞こえてきそうだ。
とにかく、ジュリエッタ・マシーナはイタリア女が持っている、
ありとあらゆる感情を宿した感情の坩堝なのである。
悲しさ、儚さ、いじけっぷり、弾けっぷり、
そして最後に涙枯れるまで泣いた後に、虹のような笑顔で〆るのだ。
まったくもってそれが豊かすぎるがゆえに、
神がその反応を楽しんでいるかのようにさえ思えてくる。
彦麻呂風にいうならば、まるで「感情のデパート」である。
同じ悲哀ものでも、『道』では悲しいかな、
粗野な男ザンパノのエゴで、救いなく
天に召されてしまったのはジェルソミーナだが、カビリアは違った。
これでもかこれでもかと襲ってくる試練、
いたぶり続けられながら、それでもへこたれない。
しかしだ、よくよく考えれば、そうなって当然なのである。
残酷だが自業自得といってしまえばそれまでの話だ。
しかし、カビリアの感情の豊かさは、
信仰をめぐって実に大きく揺れ動いているのがわかる。
藁をもすがりたい気分なのだ。
神に身を任せて人生をやり直したいぐらいなのだ。
とにかく喜怒哀楽が凄まじいのはいいが、
一向に学習しないから、男に騙され続ける。
最初は普通以上に懐疑的な振舞いを見せながらも、
結局は罠に貶められてしまう人間の弱さ、
業を見事に描き出すために、選ばれたかのようだ。
そう、実際に催眠術の興行で、
カビリアは舞台にかり出され、催眠をかけられる。
素直だから、見事なまでの催眠術にかかって、
乙女のような気持ちを吐露してしまう。
そんな人間らしさを惜しみなくぶちまけながら、哀愁をにじませ、
最後はほろり苦い味で絶望の中に転げ回るが、
そこに現れる芸人一行に紛れて、
明日への希望を見出す人間賛歌を滲ませるラストシーンは
アンドレ・バザンがいう、
「ネオリアリズモを通り越しながら、
世界を詩的に再構成することにおいてネオリアリズモを完成させている」
といわしめた、まさにフェリーニ流リアリズムだが、
振り返れば、その振り幅はなんとも人騒がせで凄まじい。
ゆえに心に強く残るのだろう。
オツムのちょっと弱い、というか単純というか純真すぎる娼婦が
男に騙され、人生に翻弄され、
それでも決してめげず前を向いて歩いてゆく、という話、
などとさも達観したように簡単にことを書いてしまえば
それでいいというものでもない。
と、ここまで書いてきて、
少し結論が後回しになってしまったようだ。
自分はそんなカリビアが大好きなのである。
実に愛おしいのである。
強引な言い方をすれば、彼女こそが市井のマリアなのである。
それもこれも、ジュリエッタ・マシーナの
あの小動物のようにビクビクしながらも、
虚勢を張って吠えてばかりの子犬のようなあの眼に
吸い込まれてしまうからなのだ。
要するに、不運続きで、人生がうまくいかない
典型的な女に肩入れしてしまうような、
男が持っている逆母性本能なるものを
くすぐるところがたまらないのである。
ま、それゆえに、男たちはこのバカならなんとでもなると
近寄ってくるわけだが。
そんな哀愁に惚れるのは何も自分だけではあるまい。
そう、監督であるフェディリコ・フェリーニの、
実際のミューズであったジュリエッタ・マシーナの代表作でありながら、
当然、フェリーニ自身にとっても愛すべきミューズの魅力が、
遺憾無く発揮されているこの『カビリアの夜』こそは
フェリーニの代表作だと信じてやまない。
初めてスクリーンで見た時から、それは変わらないのだ。
そうして偉大なるフェリーニの世界感には
不可欠な要素として今尚、映画史に輝いている。
別に美人でもないし、肉体を誇示するでもない。
何か特別なものを持っているわけでもないこの女優が、
フェリーニの映画では大女優として見事に観衆のハートを射止めてしまう。
もっとも、そんな大女優を見ても、
バカな女だと一笑してしまうような野暮にはなりたくない。
そう、これは誰かに言いたくてたまらない映画であると同時に、
誰にも言いたくなくて、人気のない名画座か自宅で
ちょっと気分が沈んだところで、
静かにじっくり見たい味わいたい映画なのだ。
もっとも、それゆえになかなか人生の深みから
脱することができなくなるかもしれない。
けれども、少なくとも、自分にとっての
ジュリエッタ・マシーナを見ているだけで
実に幸せな気分なのだから。
Omaggio A Federico E Giulietta:CAETANO VELOSO
ちなみに、ブラジルMBPのカリスマ、
カエタノ・ヴェローゾが1999年に発表したライブ・アルバム
『Omaggio A Federico E Giulietta(邦題:フェリーニへのオマージュ)』は、
そのタイトル通りフェリーニとジュリエッタ・マシーナに捧げられた
ライブの名盤であり、我が愛聴盤である。
このなかの『GIULIETTA MASINA』が流れてくると、
いまだ目が潤んでしまう自分がいる。
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